鬼島ライムのブログ『竹』


 竹は非常にしなやかで、常に真っ直ぐ伸びる。
 様々なものに利用され、見知らぬ場所で私達の生活を支えている。
 電球を一般化させることに成功したエジソンもコイル部分に竹を使い実験して成功し、私達の生活に光がやってきたと考えれば、竹が無ければ私たちの生活は支えられていないことになる。
 私が敬愛する華山魁先生を支える日比野輝という人物は、誰もが「竹」のような人だと言う。
 私も初めて会い、後にその言葉を聞いた時、これほど人に見合う例えはないだろうと思った。
 日比野君は私より頭二つ三つ高く(ヒールを履いた私よりもだ)、ヒョロリと長い。
 高い場所に絵を掛ける仕事に向いているし、先生のアトリエで電球が切れたら彼の出番だそうなのだ。
 華山先生の名誉の為に補足するが、華山先生も非常にスマート且つハンサムなお人で、一般的な男性よりほんの少し背が高い。
 日比野君が高すぎるだけなのだ。

 この日比野君なのだが、竹っぽいのは見た目だけではない、強い風に靡き撓った後、折れることなく真っ直ぐ伸びる竹の強さを精神面でも持った人物である。
 ある合同展覧会の時、それこそ芸術協会内でハラスメントの問題が大っぴらになる前だ。とある芸術家が新人の女性芸術家の作品を見て下卑た言葉を投げつけた事があった。
 彼女の作品は官能的且つ先鋭的で、恋人との逢瀬について描かれた耽美なものであることは明らかで、それは今まで柔らかな作風で知られる彼女にとって挑戦でもあった。
 斬新な作品と言うのは、その人のブランディングを信じる者に受け入れ辛い瞬間がある。
 サンリオのキャラクターの中に、突然キン肉マンのような筋骨隆々でコミカルとリアルを併せ持つ新しいキャラクターが仲間入りした場合に、受け入れるのに賛否あるようなものだ。

 しかし、新しい事はやってみなければそれが受けるのか受けないのかも分からないし、同じものを同じ形で描き続けて、それしか描けなくなるのではないか、という恐怖を抱き続けるよりも、新しい事に挑戦し、多くの作家に評価して欲しかったと彼女は語った。
 私は彼女の挑戦を素晴らしいと思った。多くの作家もそうだっただろう。
 芸術家の多くが展示する作品展の中に新しい作品を展示する時は、口から心臓が飛び出てしまいそうなほど恐ろしいものであるというのに、そのクソ画家は「周りに居る女性はこれを見て“感じる”のかな?」とニヤニヤしながら言い、周囲を見渡したのだった。
 脂ぎったクソジジィが周囲の女性に配慮せず言った瞬間、履いていたヒールを脱いでジジィの頭に叩き付けてやろうかと思った時、日比野君が呵々と笑い、「○○先生には高嶺すぎて回答が無いでしょうからねぇ、アッハハハ」と笑い続けたのだった。
 日比野君にとっては本当に可笑しかったのだろう。脂ぎった不細工なオッサンが絵を見て勝手に興奮し、自分では手に入らない女性を空想して涎を垂らしているのだから。だが、私含めた女性達は胸がすいた事を覚えている。
 それこそ、風を通す爽やかな竹林、オッサンから発せられる穢れた風を受け、影に逃がしてくれる壁としての役割の竹だ。ハハハと笑う日比野君の声は竹林の葉がこすれ合い揺らぐ梢の美しい音のように聞こえた。

 本人はその発言の貴重さと気高さに気付かず、肩を震わせて笑い続けていたのだが。
 華山先生が彼を傍に置いておきたいと願うのも、わかる。美術館で人ごみの中をスッと立ち、絵を眺める彼の姿はどんな下手くそなカメラマンが撮影しても一枚の絵になる。残念なのは竹が空に空に伸びる事をただひたすらに考え、自分の価値を理解していないように、彼も自分にどれだけの価値があるのか解ってないことだ。親子で盛大な取り合いの喧嘩をしてしまう程、得難い美を彼も持っているのに、気付いていないなんて、本当に、「コラ日比野!」ともどかしくなってしまうのも解ってほしい。
 華山先生はそんな稀有なモデルを囲っているというのに、彼の絵を一枚も描いた事が無い。提案したことがあるのだが、先生は照れたように視線を彷徨わせると小さな声で「描けない」と言うのだ。私は驚いた。
 あの、華山魁が描けないモデルが世の中にあるのだ。若き日に舞踏会の中、ケーキと並ぶ焼き鮭という珍妙なテーマを美しく描き上げることができるあの作家に。
 日比野君、恐るべし、だからこそ私は彼が日和見的に華山先生とミチルさんの心を拐かすのが許せずにいる。いっそ先生とミチルさん二人で日比野君を描いて、上手い方とパートナー契約を結べばよいのではないだろうか。

 恐らく血で血を洗う大戦争に突入し、日比野君は困るだろうが、それぐらい許容しなさい。自分で決められないのだから、もう!

2019/09/11

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