二〇三号

 アパルトメント麓の受付部分は混凝土の壁、丁度住民が顔を覗かせられる位置に小窓があって、カラカラと横にガラス窓を開く仕組みになっている。睦はそこに座り。郵便局員が大型の荷物を持ってきた場合に受け取ったり、居住者が電話を使いたいと望んだ場合に据え置かれた卓上の電話を貸す仕事だった。
 また、居住者の近親、友人、恋人などから言付を預かることも多く、その伝言を頼まれ、各部屋に伝えるのも仕事となった。此方の方が仕事として多かった。最初はただアパルトメントに住まう住民程度の認識が、沈痛なる母の声など聞けば「故郷のおっかさんに電話を掛けてやれ」と一声かけたくなるもので、またその逆もある。故郷のおっかさんに電話を掛けすぎだお前は、と苦言を呈してやりたい奴も。
「二〇二からよォ、すすり泣く声が聞こえてくんだ」
 そう訴えてきたのは通称「熊」と呼ばれる二〇三号の住民だ。彼は入居者の中では早い方にこの場所に住まう事を決め、人生を謳歌している学徒の一人だった。愛称の熊はその名が「熊吾郎」と云うだけでなく、体躯の大きさにも理由がある。
 蛮殻の似合う彼は下駄をカラコロ鳴らしながら管理人室の前を通るか、こうして管理人室の前で立ち止まり、大きな体を小さな窓に入れて、片肘つきながらネチネチと現代を嘆くのだった。女々しく。睦はそれをうんうんと頷き聞くのがまたよく無いのだが、あれやこれやと矢継ぎ早に話す姉を持つと、聞き流すことに長けるようになる。そういうものだ。
「一回「うるせぇ!」って叫んで壁を叩いてやったんだが、それがまた良くなかった。枕と布団ひっかぶってりゃ、大声で泣いていいと思ってやがる。そしたら今度は病か何かと二階の住民が廊下に出て、何事かを確認し合ってよ、二〇二の野郎は出てこねぇ。結局、二〇五の細野郎に「どうせ壁でも叩いたのでしょう」と責められてよ」
 熊は彼、二〇五号の少々エリート然した、気取った話し方を真似ながらその台詞を言ったので、睦は思わず噴き出した。
 睦の覚えでは、二〇二の住民は故郷に電話を掛けすぎている田舎の資産家、その息子だ。来年の入試と、都会風に慣れる為に帝都を訪れた彼は、このアパルトメント麓にやって来た。やって来て彼は何を見ただろう。目の前を往来する若き女学生の煌びやかさか、混凝土の建物の大きさか、大声で帝都の未来を論ずる熊と、二〇五号の住民か。
「昼間は昼間で外を見りゃ、窓に頬杖ついて溜息吐いて、……知ってるか? 最近このアパルトメントは女学生を見て溜息吐く気味わるい男が居ると噂になってやがらぁ」
「そりゃ、良くないな」
「だろぉ」
 今まで話に乗ってこなかった睦が同意を示した事に熊はやや喜色を表した。
「大家、アンタの話なら二〇二も聞くだろう。ガツンと言っとくれ」
「ガツンとは言わないが、女学校に恐怖を与えるとこの周辺の評判が悪くなって、入居者が減るとは言っておくよ」
「マア、夜半姦しくならねぇなら良い」
 頼んだぞと言わんばかりに、コツと一度窓枠を叩くと熊は自室へと戻っていった。
 太陽が隠れた頃、熊はまた下に降りて来て管理人室の小窓を開けると「電話を使いたい」と申し出た。交換手に繋がったのを確認すると受話器を熊へ渡してやる。熊は故郷に電話を掛けると「家」の番号を言った。彼の実家の番号だ。
 熊は電話に出た誰かに「応、ミヨに代われい」と宣言した。その後は「わかってるわかってる」と適当な相槌が続き、ミヨが電話に出たのかまた「応、ミヨか」と声をかける。
 睦の知るところによると、ミヨは彼の妹だそうだ。三女だからミヨ。ちなみに、熊は五男であるが、妾の子でミヨは同じ腹から生まれた妹と言う事もあって親しいという。
「お前が読みたがっていた本を入れ忘れて――や、業とではない。仕方あるめぇよ。次に送るから待てって言ってるだろう」
 そう言いながら困ったように頭を掻いた。
 熊はこの会話を先週もしている。先週もそう言っては荷物を送り、入れ忘れたと電話を掛けて今度こそはと、言って又忘れたのだ。バツ悪そうにするかれの横、アパルトメント麓の玄関から洋装の二〇二号が現れたのだ。熊は下駄履いた足を伸ばし、ひょろりと長細い彼を足止めすると高らかに叫ぶ。早慶の応援団のような腹から響く声だった。
「二〇二号。お前に言わねばならぬ事がある! こちらの大家主様からな!」
 図体は俺よりでかい割に、狐の威を借る虎と化している、おかしなものだ。大家主として紹介された睦は呆れ顔の変わりに作った笑い顔を崩すことなく、二〇二を見た。
 だが、二〇二の心ここに在らず、フラフラと熊を避けて二階に続く階段を上る。足止めしたものの、軽く避けられて進まれた熊は「奴は妖怪か」と一人ごちた。
「志賀田君、怯えることは何もない、この時期、里心が付くのは珍しい事ではないし」
 二〇二、もとい志賀田は僅かに足を止めた。熊はジロリと管理人室を睨む。それを言ってほしいのではない。大家は臆せず続ける。
「でも、少々気になる噂も耳にしている。女学生たちが此方のアパルトメントから、生徒を見る妙な男がいると気にしているのだよ。向こうには僕の義兄が居てね。変な噂が立つと俺が心配される」
「へえ、そりゃ、初耳だ――オイ、聞いたか。お前が女子見て溜息吐きゃこの大家の賃金が減っちまうぞ。そうなりゃどうする。この片の足じゃどこに働き口がある」
「や、片足の俺を養えぬくらい家は貧乏ではない。むしろ心配なのはお前さんのほうだよ。勉学に来ているのに集中できぬのなら意味がないではないか。何が理由かは分からぬが、俺でよければ聞く。お前も夜な夜な泣き続けたい訳でもないだろう」
 志賀田は振り返り管理人室から顔を出す睦を睨んだ。そうして吼えた。
「お前たちに何がわかる!」
「な、におう?!」
 腕を捲り怒気をはらむ熊を制すことは片足無い睦には難しかった。殴り合いになる二人を前に松葉杖をつきながら「やめんか!」と叫ぶのが精一杯。隣の騒ぎに気付いた耳の良い刑事が飛び込んできて二人は止まったが、それを境に志賀田は傲慢になった。
 目の前の道を歩く不良な女学生に向け、想像だにしたくない酷い言葉を投げかけたり、如何に自分が名士の出であるかを叫んだり。気の弱い店子は早々に部屋に入るが、熊や、常に熊と論戦を繰り広げる二〇五号などは志賀田の話に過敏して舌戦となる。
「あいつぁ、おかしい。生家に連絡して脳病院に入れるべきだ」
「ううん……」
 大家としてどこまでをすべきであるのか睦はまだ測り兼ねていた。彼の生家に連絡を入れ、様子がおかしいと告げるべきなのかもしれない。睦が筆を執った時、アパルトメント入口、ガラス装飾の引き戸向こうにボルドーの車が見えた。
 ポカリと口を開け、下りて来る崩した紳士を熊は見ている。
「伯父様」
 睦の言葉に熊は睦と伯父を交互に見た。キートンが被っているようなカンカン帽を取り、「居住者かね」と挨拶する。本物の名士(伯父の場合は持っている生来のものが大きいが)を前にすると己も丁寧にならねばと思うのか、蛮殻気質の熊の牙は抜けたように、「は、はあ」と腑抜けた挨拶しかできなかった。
「伯父様、お久しぶりでございます」
「元気そう――にも見えるが、筆の進みから問題もあるように見受けられる」
 日誌を見られ、睦はやや苦い顔をした。
「その通りです、その、店子に問題がありまして」
「それを捌くのもまた大家の仕事という。江戸の時代、大家は店子の悩み相談も買っていたと聞くよ。解決したかはわからんが、まあ、大家と呼べるものは尊敬できるような人間であるべきだ――君はどうかね、大家としてこの男は」
 突然話を振られた熊は姿勢を正すと軍隊の様に「ハッ」と返事をした。熊は大学入学以前に従軍経験があると話していたので伯父の言葉に慎重に返すだろう。
「片足の問題はありますが、常に沈着であり頼れる大家と思っております」
「うん、評価は悪くないようだ。では彼の問題か。何があったね」
 睦は伯父に今までの事を報告した。夜に泣く二〇二号の住人、話を聞こうとしたら怒り出し、熊と殴り合ったこと。そうして女学生に浴びせる卑劣な言葉、他人を見下す物言い。
「これまでは勉学に励む若者として見過ごして来ましたが、そろそろと彼の生家に連絡を……と」
「睦、生家への連絡前に、彼を喫茶に呼ぶが宜しい」
「……と申しますと」
「そして定次君を呼ぶと良い」
「定次」
 同じ大学の同窓にして非常に優秀な人物であった。陛下から賜りものを受ける程と云えばその優秀さが伝わるだろう。足を失ってからやや疎遠となった気がしている。
 いや、疎遠にしたのは自分の方だろう。
「彼を呼ぶのは」
「彼を恥ずかしがるのは睦、お前自身だろう。今は面倒な店子の話をしている。お前の事は関係ない。寧ろ、新たな右の足を披露するが宜しい」
 図星を突かれ、睦は少々腹に来た。しかし伯父を尊敬する思いもあって、言われた通りに手紙を出したところ、温かな返信がその日に返り、糊の利いた背広を纏った彼は予定の日、数時間の前に快気の祝いと共に喫茶にやってきたのだ。

 窓の近い、西洋などでボックス席と呼ばれる場所に睦は腰掛けていた。
「ヤア、顔色が良くて安心した。久しぶりだね」
「ああ、ヤア……」
 足があれば彼と同じように糊の利いた背広を纏い、髪を流行りに整えてオフィスビルを上に歩いたことだろう。デパートのマヌカン、そんな風だ。
「連絡が絶えて心配していたのだが、男爵様は大丈夫としか仰らなくて」
 男爵様とは伯父のことだ。女給が注文を取りに来た。彼はコーヒーと軽食を頼んだ。
「腹に何も入れていないんだ」
 子どもの様に笑うと水を飲んだ。
「そうか……、今は何を?」
「――逓信省に居る。大陸の言葉を買われた」
 睦が少々複雑な顔になったのを定次も逃さなかった。負けず嫌いであった彼ならそんな顔になることも仕様の無いことと思う。
「君のお陰だ」
「やめてくれ」
 蓄音機から流れる音楽が大きくなった気がする。空気を打破する如く、女給が注文を持ちやって来た。コーヒーの匂いと温かな軽食の香りがその場に混ざる。伯父は何故彼をこの場に呼んだのだろう。食事する彼を眺めていた睦に学徒時代のように「一口どうだい」と勧める、まったく変わらない事に少々絶望もした。己が変わってしまったことにも。
 右足を擦った。
「管理人をしていると聞いた」
「ああ……隣の、建物だよ」
「隣! 混凝土の、立派な建築物ではないか、先も目を引いたよ」
 ここから暫く、建物に関する談義が続いた。定次は今、寮に入っているそうだがそこも新築と言えど作りはやや古いそうだ。勉強がてら文化住宅の見学にも行ったそうだが、多くが家族向けで一人者には広いとのこと。
「逓信省は今大陸に通信を広げようとしているから、留守にする事も多いのだよ。今の場所は警備が確りとしているけれどもそれ故の息苦しさもある。……言い難いが上や同僚の様々な話も聞こえる」
「ああ、それは、ウチと似ている。店子同士で喧嘩したり、町で見ただの、女と歩いていただの」
「多くはソレが嫌で見合いをして出て行く――なあ、今度中を見せてくれよ」
「まあ……構わないけれど」
「ああ、時間が取れたら連絡する――」
 定次は胸ポケットに入ってた銀色の時計を確認した。堂々と言葉が刻まれている。パタリとそれを閉じると「そろそろ行かねば」と席を立つ。睦が立ち上がるのにややもたついたのを見て手を貸した。久しぶりに会えてよかったと言葉を交わして外に出る。未だややぎこちなかったがツンと鼻に来るなつかしさがあった。先の話で交わした己が管理を務めるアパルトメントの前で別れる。
 別れる前に、建物を見上げて定次は言った。
「喫茶が隣で学生街が近いのか、良いね。この場所は良いね」

 その日から何故か志賀田が大人しくなった。管理人室の前を通る前に恭しく頭を下げてから歩いていく。二階で泣く声も静かになった。そんな彼を見ながら、熊が下り来ていつものように話し始める。
「ヤ、昨日、大家が喫茶に入ってから」
 熊の話はそこから始まった。
「俺も二〇二号を連れて喫茶に行こうとしたんだが、大家の伯父殿がやってこられてな、白々しく「睦はいるかね」と聞いたんだよ」
「ほう」
「俺もよ、「喫茶でご友人と話されています」と伝えたんだ。喫茶を見たら二人が話していて、お相手が時計を見て席を立つ頃だった。でも、それ見たら二〇二号が蒼ざめてよ、気分が良くないって帰っちまって、伯父殿は一言「時計を見たな」ってサ。ああ、成程、銀時計の方かと。伯父殿は大家がそんな方ともお知合いであるんだぞと見せつけて志賀田の鼻をへし折ってやったって寸法でしょうや」
 銀時計の方、帝大を優秀な成績で卒業した者をそう呼ぶ。彼らの多くは定められた出世の道をひた走るだろう。彼はそれを受け取るにふさわしいだけの人物である。
 正直を申すと、俺も欲しかった。
「ああ、そう、だったのか、ううん、虎の威を借る狐の気分だ」
 内心複雑であった。志賀田君は奥底で馬鹿にしていたのだ。足を失いこの場所で管理人をしている俺や、同じく勉学する学徒たちを。そして彼らを収められないのは未だ己に威厳が足らない所為だろう。
 熊が揚々と話す。管理人室の壁向こう、少々、足が憎い。机に隠れて見えない場所で義足を打った。

2016/10/12

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