前日譚

 糊の利いた背広を着た青年と、日傘を差した麗しき海老茶の女学生がデパートの並ぶ中央街に居た。先を歩く青年の後を女性が付いていく。ソーダと描かれた看板を見つけた青年は「雪代さん、あそこです」と女性に言った。ハイ。と少々上ずった声で彼女は答える。
 店は大通りに近かった、ちらほらと車と馬車、人が往来する賑やかな場所だ。デパート目当てのご婦人などがぺちゃくちゃと話ながら通り過ぎてゆく。
 目の肥えた者は二人の価値を知るだろう。糊の利いた背広は特注品で、女が着る制服は入学金の高いお嬢様学校、そしておそらく身分もある筈だ。二人は気が付かないが、人々は彼らを避けて歩いていた。失礼があったら手討ちにされる危険もある。
 パーラーは大通りの向こう側にあった。交通整理の合図で通りを渡る。パーラー帰りの者とすれ違った。「おいしかったね」と声が聞こえて来る。雪代は繁華街を見ようと往来の中央で足を止めた。そして近づく馬車を見た。
 様子がおかしかった。暴れる二頭の馬を御しきれてない。往来の者もそれに気づいた。馬は車を踏み、人々を払い、交通合図していた警察官を弾き飛ばした。
 銃声が聞こえ、馬が嘶く、血を流しながら体を振って苦しんでいる。悲鳴が聞こえた。二頭の馬は真っ直ぐ横断している人々の群に突進してきた。
「危ない!」
 叫んだのは背広姿の青年だった。傘が空に舞う。雪代の体は弾かれ、目の前に倒れる彼の姿が見えた。

「おはよう、睦」
 薬品の匂いと鋭い声に背広を着ていた青年は目覚めた。大きな窓と木製の壁、つり下げられた電燈が目に入る。睦と呼ばれた彼は隣に座るぼさぼさ頭で眼鏡の男に頭を下げ、特注の背広を業と来崩した男を「伯父上様」と呼んだ。礼儀を尽くすため立ち上がろうとしている睦を、
「本調子ではない筈だ、そのままの姿勢で」
 伯父は読んでいた本で抑えた。
「何が起こったかは覚えているかね」
 睦は頭を掻いた。思い出そうとして苦しんでいる様子だ。伯父はそんな彼に焦れて答えを言う。「君は馬車に踏まれた」
「ああ、そう言えば――、雪代さんは」
「無事だよ、お前のお陰だと感謝されていた。倒れた後彼女は一日と数時間、泣いてここに居たよ。その後は御父上が連れて行ったけれども」
 雪代を思って胸を撫で下ろした。息を吐いた顔に笑みが浮かぶ。だが、伯父は複雑な顔を崩すことは無かった。
「通信省から連絡してもらって、弟にも連絡をした。大陸からこちらに向かうだろう」
「そこまで」
「右の足のことで、どうしても話をしなければならない」
 睦はその時初めて布団を捲った。そうして右足、正確には太腿から先の無い部分を見た。包帯の巻かれた箇所に血が滲み、己に何が起きたか漸く自覚する。雪代を救う為にその身を弾いたことまで覚えていた。その後は、激痛を覚えて意識を失ったのだろう。
 痛みの原因は足だ。右の足、その先。
「先方の御父上と話さなければならない。結果がどうなろうとも雪代を責めることはないように。なに、仕事なんて探せばある。大学を卒する事を先ず考えなさい。家と将来の仕事に関しては心配することはない」
「伯父上」
「何かね」
「雪代とはどうなりましょう」
「聞いてなかったのも仕方があるまいが、将来を話し合う時間は要する。結果がどうあれ、お前は何も心配することはない」
 伯父が言うと不思議とそのように感じてしまう。それは彼が実力者だからだ。しかし、足を無くした男を誰が雇うし、誰が招くだろう。これからは車を持たねばと期待を持っていたのに、どうやって運転すると言うのだ。私は支えられなければならなくなった、誰が私を支えるだろう。

 雪代とその父、満州から来た睦の父「厳」と睦自身による調停は円満に終わった。雪代は反対したが、そもそも女の意見は取り上げられることのない時代である。婚約は無しに、睦には婚約を破棄して頂く為、慰謝料が支払われた。いや、これは慰謝料ではなく治療費とその後の生活費であろうと誰も思っていた。これだけの金を払うので娘をあきらめて下さいませ、そんな先方の礼儀。その表れの品となる。
 彼もそれを受けた。わんわんと泣く雪代の涙が離れないが、女とは強くあるもんですから大丈夫ですよと姉「二子」に慰められた。名の通り、二番目に生まれた子である。美しいのだが、性格がきつく、学があることも災いして誰も嫁に貰わない。
「そう淡泊に申されると、散々悩んだ一月が虚しくなります」
「悩むだけ無駄だったのよ。人生はケセラセラと申しますでしょう? 悩むくらいなら足でも生やして見せなさいな」
 仏国に被れた行き遅れの姉を睦は疲れた顔で見た。
「生やせるものなら生やしております」
「少しお休みと誰かが申しているのよ、そうだ、伯父様の家に行くのでしょう?」
「ええ、運転手を寄越して下さると……、立つのを手伝ってくださいませんか」
「立つのまではいいわ」
 睦の手を二子は取り引っ張り上げた。不安定な形で揺らめく体を先まで座っていた椅子で支える。松葉の杖を引き寄せて慣れない歩行を繰り返す。練習も兼ねていた。
――立ち上がるまでは手伝ってあげますけどね、その後は自分で歩くのよ。
 足を失って帰ってきた時、姉に言われた突き放しの言葉を思い出した。階段一つ上るのも、姉は隣に控えるが手を貸そうとしてはくれなかった。甘やかされて育った弟はいない筈よ。と言っているが、単に面倒なだけもあるだろう。そんな人だ。
「大旦那様のお車が――」
「今行く」
 使用人の呼びかけに玄関へと向かう。杖を突いて歩いた。少々まぶしい外の光に目を細めると、ボルドー(と伯父が言っていた)色のルノーと呼ばれる車が止まっている。帽子を被った運転士が扉を開け、段差を上るために睦に手を貸した。
「どうも」
 睦の後に二子も乗って来た。
「貴女も行くのですか」
「ええ! 伯父様のお話は面白いですもの」
 扉が閉まる。運転士がアクセルを踏んだ。この当時の最高速度は二十程、流れる速度で街を進んでいく。
 伯父の家は中央街から外れた坂の上にある。和風建築の邸宅と、「倉庫」と読んでいる大きな西洋館の組み合わせ。誰もが西洋館が本宅だと勘違いするが、伯父は「広すぎる」と嫌っている。この辺が変わり者と言われる理由の一つでもある。
 近年ではままあるらしい、呼び鈴を鳴らした。ビーと奇妙な音が鳴る。伯父家に居る訓練されたバトラーが頭を下げ、椅子に車輪の付いた乗り物を準備していたが、睦は丁重に断り松葉杖と片足で歩くことにした。
 二子は先々を行ってしまう。畳の部屋に伯父の姿をみたのだろう。
「ご機嫌よう伯父様」
 と挨拶する声が聞こえた。
「やあ、その服は新しく新調したのかね」
「そうですの、ホラ、仏国の服飾家を真似るようお願いしましたの」
「しやねる、とか申すアレだろう? よくお似合いだよ。睦、元気かね」
「はい。多くの気遣いに感謝しております」
「何をしたかな」
「お父様への連絡と、使いやすい松葉の杖のご準備。退院後のお車も伯父様のものでしたわ」
「そうだったか。覚えていないよ」
 伯父は必要に思えば誰よりも早く動きすぎてしまう所がある。その辺りが人を呼ぶ理由だが、彼はそれを嫌う。曰く、近づいて来る者の多くは困っている奴ではない。静かに生活したいと溜息吐く時があるが、それでも本当の意味で困った者を見捨てられないし、それを発見してしまうのだと父が以前言っていた。
 伯父が座ると二子も着席する。睦は未だ畳に座ることになれていない。恥ずかしながら最初に断った車輪付きの椅子が後ろから差し出された。それに座るしかないが、伯父より頭が高いこともあって座りの悪さを覚えた。落ち着かず、不安定だ。
 伯父は気にせず続けた。
「お前を呼んだのはコレを見て欲しいからなのだが……、おい」
 伯父は使用人に命令すると楽器が入っていそうな箱を開けた。中には金属と木製で作られた足の形をした何かが入っている。
「伯父様、これは?」
「義肢だ。大阪の方で作られているものだよ」
「まあ、新しい脚になるのね。よかったじゃない」
 二子は睦の左足を叩いて、右の足にそれを近づけてみる。戸を開けて皺の深い男が入って来た。伯父が手をやると睦の方に歩く。二子の持つ義肢を受け取ると右太腿に機械を装着してゆく。成れない装置の圧迫感と、痛みに顔を歪めた。
 職人は言った。関西の訛りがある。
「最初は誰しも痛いー痛いーって言いよるけど、慣れるからダイジョブや」
「うん」
「最悪、手ェ使って歩けばええ」
「それは歩くと言うの?」
「お嬢さん、見た事ないか? 見世物小屋で逆立ちで歩く小男を。あんな感じや」
「ああ、あんな感じね。睦、これで歩けないならそうしなさいよ!」
 この皺深い職人とは大阪に帰るまでの数年、義肢の付け方から取り扱いの方法まで詳細に世話になった。どれほどの金を積んだかは恐ろしくて聞けなかった。ただ父が伯父に深々と頭を下げていたのを姉が見ている。兄からは心配する電話と手紙、満州で買ったという翡翠の置物が送られてきた。睦はこの置物を大阪に帰る職人に渡すことにした。
 彼は深々と頭を下げると老人特有の屈託無い笑みを浮かべ、ボルドーの車に乗りこんだ。その時、睦は新しい義肢と、残った左の足で立って、彼を見送ることになる。

 身分に寄る特例もあって、三か月遅れで大学を出た睦はこれからの職に悩んでいた。父と兄のように異国を飛び回り様々な物を買い付ける仕事に憧れたが、この足ではそうもいかない。警察勤めの近親は免許を取ることの難しさを思ったのか眉をひそめた。
 物書きになろうか。動かぬ仕事を考えるべきか。
 困った睦が行ける場所は伯父の元しかなかった。その時、伯父は新聞を広げながらあれやこれやと考えていたようだ。
「突然すみません」
「仕事の事だろう? そろそろ来ると思っておったよ」
「……ご承知の通りです」
「そう苦々しく言うな。や、お前に頼みたい仕事が一つ、出来たんだよ。こっちから行くつもりで、いたんだが。抱えるものも多くなってしまってね」
 伯父は立ち上がると、外支度を始めた。カンカン帽と外套を抱える。
「少しばかりこことは離れた場所なんだ。繁華街を通って、学生街に出る。そこにある家、そこで管理人を募集して居る」
「管理人」
「住み込みのな。管理人と云うより電話の番と荷物の番かな。それと口の堅い奴がいい。お前は私に恩があるし、適任だし、賢いところが良いと思う」
 ボルドーの車に乗りこみ伯父の言う管理人を募集している建物へ向かった。彼の言う通り、繁華街を通って学生街に出、女学生の声が響く賑やかな場所、その中心に鉄筋混凝土式の新しいアパルトメントが立っていた。玄関を出ると隣にカフェーもある。二階建てで、その一階に通路があって受付のような場所の内側に電話と部屋番号が描かれた荷物の置き場がある、近代式の文化住宅だった。
「良い場所ですが――こんな立派な場所であるなら、管理人の希望者は多いのでは?」
「うん。だが、お前にしか務まらんと思うよ。こっちに来なさい」
 伯父は鍵の束を持ち、一〇一と書かれた扉を開けた。ガランとしている部屋の中は広いとは言わないが、学生が住み、勉学するには好条件に思う。伯父は真っ直ぐ窓に向かうとガラスを開けた。
「これが理由だよ」
 睦は首を傾げた。窓を開けた向こうには学校がある。有名な私立の女学校だ。髪を結った生徒が学校の中から出て行くのが見える。のどかな風景だった。
「これの、何が理由でしょう?」
「学生向けのアパルトメントであるにも関わらず、目の前に女学校。勉学に集中できるか?」
「できます」
「それはお前が雪代さんと言う許嫁あって、未練たらしく今も思っているからだ。普通の学生であれば、色に、恋にと気が散って仕方の無い環境であることは明白だが、ここは立地の条件良すぎる故に家賃が高い」
「賃料を低くすれば良いのでは」
「家賃を低くすると、素行の宜しく無い者が住まう。程よく高級であると言う事は大事なことなのだよ。そしてここは新しい住まいの見本、その一つになるだろう。や、ね、実はここを建てたのは私の知人、そのぼんくら息子なのだが――」
 伯父は溜息を吐いた。
「曲がった助平根性で、女子を集めるつもりだったそうだ。だが、大事な一人の娘を男の居る寮へ入れたいと思うかね。私なら思わん。建てたは良いが入居の希望者は零。息子の手に余る文化住宅だけが残った。困った知人は私に相談し、ここを買いとる事にした。学生が住まう場所としては、理想的な場所であり、理想的な管理者を知ってる」
「管理というのは、家の壊れにも対応するのでしょう?」
「電話で修理屋を呼べばよろしい。ハッキリ言うが、この建物は儲かるし、國の為にもある。理由は数年で分かるだろう。そしてお前はこの場所を守るのだ。命令とした方が良いか」
「いえ、魅力的なお話すぎて、当惑しております」
「よろしい」
 窓の外を見た。窓辺で話す二人の男に興味を持ったのだろう。女学生の一人が此方に手を振る。睦は彼女に手を振り返した。女生徒たちはきゃあと云いながら走り去る。たしかに、これは集中が出来ないかもしれない。
 秋を越えた時、睦はこの住宅の管理人として正式に着任した。荷物を運びこんだ日は、二子と一緒にやって来た。
「良い場所ね。私もここ、住もうかしら」
「いや、それは、流石に」
 男というのはどうして女の一人暮らしを止めてしまうものなのだろうか元気よく女学生に手を振る姉を見て思う。彼女はこれから誰か住むだろう部屋を見回して言った。
「ここ、本当にイイ場所ね。殿方からしてみれば、女子の声が姦しく聞こえるかもしれませんけど、隣のカフェーには刑事さんも出入りして、防犯もしっかりしているし」
「刑事?」
「あら、見なかったの? 自動車が止まるとコーヒーを飲みながらこちらをじろじろと睨むように見ていたわ。アレはねきっと警察の方よ。」
「はぁ、よく見ているな」
「そうでしょ――あら、御機嫌よう」
 姉が頭を下げると後ろにはコートを纏った男が立った。切れ長の瞳に短い髪をポマードで撫でつけたエリート然した男だった。帽子を上げると頭を下げる。
「失礼ながら、魅惑的な建物だと思っておりましたもので。話を聞くに家主の方であろうと」
「ああ……私がそうです」
「貴男が、初めまして、私、あの女学校に務める講師でして」
「まあ、それは丁度宜しいかと、この場所なら忘れ物しても取りに来れますもの」
 二子の冗談に男は笑った。成程、デパートガールのセールスというのはあの様にするものなのか。管理人室から契約の書類を準備しながら、英語学科の教師であるという男と、英語の話せる姉との盛り上がりを横目で眺めていた。好きな場所を選んで貰った所、忘れ物を取りに来るなら、一階がいいわよ! と、二子が言うので、彼は一〇一号に住むことになった。管理人室からよく見えるこの扉に、姉が良く尋ね、複雑に思うことと、本格的に住人が集まり出す前に、姉と籍を入れることになり部屋を出ることになるのは少し先の事になるのだが、未だ解らなくて良い事だった。

2016/09/21

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