二〇五号

 玄関を開け、寒気が管理人室にも流れ込んできた。褞袍と湯たんぽ、右手の傍に置いた茶の熱で暖を取る事はできても開かれた扉から入り込む風には負ける。身を震わせて管理人室の小窓を閉め、玄関に据えつけられた英製ガラスの向こうに見える外を見た。
 チラと降る雪が松の枝を色取っていた。小走りで隣にあるカフェーに入ろうとする青年の吐く息が白かった。
 管理人室の前にはご自由に持って行け。と雑な字で書かれた箱があって、その中に蜜柑が詰められている。玄関傍に置かれているのはこの場所が家の中で一際涼しい場所にあるからだ。要はそれだけ寒い。住民が足元の箱に気付き、一つ二つと持っては行くが、それでも未だ減らない。暇があれば睦も頂くのだが、足元の箱に入れられた蜜柑を取る為に屈むのが少々辛い。
 サクと音がしてひょろりと長い身の青年が扉を開けた。寒気が入り込み、思わず褞袍の前を合わせた。その動きに気付いたのか、青年は扉をしっかり閉めたか確認する。鼻と頬の赤い彼は二〇五号に住む男だった。
「寒いですね」
 挨拶変わりの会話だ。小窓を少し開けて本当にと話して身を震わせる。
 そういえば、彼が初めてここに来たのもこんな寒い日だった気がする。

 冬の学生街は少々賑やかになる。新しい進学先を探してやってくる田舎の学生達が入れ替わり立ち代わり街にやってくるのだ。このアパルトメントからは田舎から出て来る名士の娘が見える。俺は彼女らが見える二階から下を見下ろし、今から来る親子を待った。
 伯父の知り合いというその御方は軍上層部に居られるそうで、息子の下宿先を探しているとだけ伝えられた。手紙の後に電話もあって、「気に入らなければ向こうからお断りするだろうから」と、とりあえず二階の見晴らしの良い部屋を案内することにしたのだ。
 この部屋からは通りが良く見える。女学校の正面玄関から出入りする女学生と、その学校に植えられた桜が春美しく、夏青々とし、秋は紅葉美しい、冬は枝に乗った雪が綺麗。
 だが、誰もここへは入らない。
 正午の大砲が鳴って時間通り、背をピンと伸ばした恰幅の良い紳士と幼さ残る青年が麓の中へと入って来た。「失礼する」と名乗った彼は睦の前に名刺を差し出した。中央上部に「陸軍少佐」と書かれた下に所属と名前があった。「黒磯鉄平」、その左に住所と本宅の場所が書かれている。恭しく頂戴して懐にしまう。身分の高い方が来られると聞いて、背広を着ていて良かった。
「私、管理人を任されております睦と申します」
「睦…、軍出であられるか」
 足を引きずる自分を観て思ったのだろうと睦は察する。首を振り、理由を話してそれを否定した。同門であれば、彼はすぐこの場所に息子を入れると決めただろう。上の立場に立つ人間はそういう所があると伯父が言っていた。仲間意識というか、そう云ったものが。
「……お住まいになるのはお坊ちゃんですか?」
 坊ちゃん呼ばわりに青年が顔をしかめたのを見逃すことは無かったが、父の方は当たり前のように続けた。
「その通り。初めは大学で教鞭を執る弟の家に書生に出そうと思ったのですが、既に学徒をとってしまった。下宿も探したのですがここから二つ先の区は盗みが頻繁と聞き、流石にそこに放り出すは忍びない。篤尚、息子のことですが、コイツは神経質な気がある」
 確かに会ってすぐそんな印象は受けた。父の後ろで何も話さず、ただ黙って二人の後ろをついてくる。意思がないのか漫然としていた。
「悩みに悩んで男爵様に相談したらば、「イイ処がある」とおっしゃった」
「それがここですね」
 二〇五号の扉を開けながらそう言った。真正面から見える窓は外の寒々としながら女学生が歩く風景を映す。一見は美しい風景なのだ、「一見は」。
 靴を脱ぎ、窓に向かう少佐と違い、息子の方は台所を見た。水の出る蛇口、燐寸<マッチ>を使わないガス式のコンロが並ぶ。
「良い場所だが――」
 少佐が顔をしかめる理由は最もだった。美しいと思える部屋だが真向いにある女学校が“引っかかって”いるのだ。
 この部屋に住民が居つかないのはそれが理由だった。目の前にある女学校から出入りする女生徒に現を抜かして勉学をしなくなる者が多いのだ。
 この場所に来るのは一人暮らしなぞした事もなければ、両親によって後の見合いも決められているような良家の子息しか住めない家である。隣にカフェーがあり、学生街が近く、歩けば繁華街にも行ける。良い場所であるからこそ家賃を払えるような家柄でなければここに住むことは出来ない。
 そんな家で育った男は目の前を歩く若い誘惑に耐えられない。賢しい者は部屋の交換を申し出るか、この場所を去る。愚かしい者はそこに居続け勉学に集中できず成績が落ち、結果としてこの場を去る。中には適当な女学生に手を出して婚約者と思しき田舎の訛りがある女性から睦の居る管理人室に悲痛な電話が掛かってきたこともある。
「この場所は美しいかもしれないが、勉学に集中できる環境に無いな、他をあたるよ」
 賢しい親は子をこの様な場所には住まわすことは無いが、青年は傍らにあるガスコンロから水道のヘリを撫でていた。その後ろ姿がなんだかこれからの生活を思い浮かべているかのように見えたものだから、彼につい声をかけた。
「そうですか、――篤尚さんはどうでしょう」
 彼、後に二〇五号の住人になる男はハッとして顔を上げた。初めて自分の意見を尋ねられたからか結んでいた唇を解きほぐすように唇を撫でる。
「私は」
 一拍置いてから彼は意見を言った。
「コンロが有るのが気に入りました」
「料理なぞした事もなかろう?」
「ハイ。でも、ここでならできますし、珈琲が淹れられます」
「隣で飲めよう」
 少佐は壁向こうを指さした。カフェーのある方角である。青年は首を振ると「この場で飲めます」と呟いた。
「わかります」
 問答を繰り返して進まぬ会話を断ち切る様に睦は同調した。
「自分で好きなだけ、何も言われず食べ、飲むのは楽しいものです。僕も管理人室の奥に自室があるのですが、そこで珈琲だったり、差し入れの西洋菓子をちびりと食べながら本を読んだり。家族と居たら姉が突然部屋に入ってきたり、鍵をしても外からうるさいもので時折にうんざりとする事もありまして」
「そういうものかね」
「ええ、そう言うものです。伯父が良く言いますが、これからはおそらくプライヴァシィが議論されると伯父がいいますから、米英の話は好かないかもしれませんが、そのような言葉が学術誌にあったそうです。一人になることは大事になってくると伯父は申します。僕もこの足になってから考える事が増えましたから、伯父の言う事が理解できまして」
「ううむ」
 少佐が顎を撫でたのは話の中に伯父が出てきたからだろう。伯父が言うのであれば、そうなのではないかと思っているのだ。
 二人はその日重要な決定を下すことはしなかった。集合文化住宅は最近増えているのだから、ここの他にも選択肢はある。
 彼らから再び連絡が来たのはそろそろ春の足音が聞こえ始める時期だった。どのような話し合いが行われたか知らないが、青年は睦が控える管理人室に連絡をしてきた。
――未だあの部屋が空いているならば住みます。
 はっきりとそう言った。

 それから半年近くが過ぎて、頬と鼻を赤くした青年は片手に本を抱えて戻ってきた。女に現を抜かすことも無く、通う大学も名のある場所だ。二〇三号と言い合いながら熱く議論を交わすまでに賢い。
 彼は寒いですねと告げた後、足元の箱に気付いたのか蜜柑を手に取り、本の上に乗せて部屋まで運ぶ。
 檸檬。
 であったら、好きな本の世界と同じになれたろう。

2016/11/07

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