客として

「チケットとったのか?」
 帰り道、教授が載ったコンサートのポスターを眺めていると同窓生の長巻が言った。
「俺は取った」
「僕も」
「生徒限定でよかったよな。それでも倍率高いけど」
 ポスターの写真は一年前、大学の定期コンサートで演奏されたものだった。僕はその場にいて、その演奏を聴いていた。ピアノの音だけで空気が痺れるなんて体験は初めてだった。その音を一度体験すると、ほかの演奏が物足りなく思えてくる。
 数年前からこの大学の客員教授となった彼を知ったのは高校生の時だった。余りテレビを見ない僕はその時に彼が日本に住む作曲家であることを知ったのだ。CDを買いあさり、その世界に浸る。この大学に入学することは大変だったけれど、彼に逢えた瞬間苦労は報われた。
 入学して、幸いに彼の教示を受けることができてからが大変だった。上手く演奏できず、彼を失望させているのではないかといつも思う。彼の近くにいるだけで心を見透かされてしまうのではないか。もう、気付かれているのではないか。
「あの人の恋人もくるのかな」
 その言葉に体が冷えた。

「叩きつけるようなピアノの演奏が良い。ただ、繊細さに欠ける。恋人と離れた時の切ない状態を思い出して」
「生徒にもそんな風に指導するなら、セクハラで訴えなければいけませんけど」
 ルイと過ごしてからピアノに触れる機会を増やした。昔を思い出すべく練習を繰り返す。あの頃のように、彼は後ろで俺が演奏するのを眺め、演奏が終わると感想を告げる。今日は偶々俺がオフの日で彼は仕事に出かける前、教授姿のルイが生徒に指導するように演じているだけなのだが、いちいち、肩を触ったり、太腿に触れたり、無意識なセクハラが横行している。
「君だけだよ」
「よりアカン。差をつけるからセクハラになるから。やるなら徹底的に」
「セクハラして欲しいと?」
「そうじゃないけど」
「もっと徹底的にしてほしいんだね」
 もぉお、いつもと違うメガネ姿に、少し教授らしいとドキドキしたのに。
 メガネを掛けたルイは教授力が上がる。整えられたスーツに髪、高級な靴を履いて銀縁の眼鏡。その奥から見えるグリーンの瞳、年齢を重ねても整った人は整っているのだと思う。
「惚れ直した?」
 じっと見ているだけで見目について考えていると伝わるのだ。ああもう。
「か、……っこいいとは思う」
「素直で良い」
 教授らしく言い、行ってきますとキスをした。
 ポツンと取り残された部屋で一人、数分ピアノの練習をして、そろそろ行くかと外に出る。今日は俺が食事を作らなくては。
 一階に下りて、郵便受けをチェック。手紙やDMが入っている中に一つ、ルイ当ての小さな封筒。細い文字で名前と住所が書かれている。何故か気になった。
 異国、特に彼の母国から手紙が送られてくることは珍しく無いが、国内からの手紙は珍しかった。ファンレターは彼の事務所に宛てられる為、家を知っている誰かからのメッセージになる。
 深く詮索するつもりはないのだが、数日前のコンサートから俺の中にある嫉妬のスイッチがオンになり、オフになる気配がない。勝手に開けてはいけないことは分かっているから太陽に透かして中身を見ようとする。見えるわけはない。気になる。開けたい。
 開けちゃう?
 国内郵便だったから俺宛かと間違えてと言い訳すれば彼は笑って許してくれるだろう。不審物かと思ってとか、可愛く言って見せればいいのだ。そこはコントで培われた演技力を活かす時!
 ゆっくり丁寧に、ピリピリと蓋を開けていく。全てを切り終え、封筒をひっくり返す。
 ストンと二枚の厚紙が落ちてきた。コンサートのチケットだ。少し厚めの紙にコピー印刷した手作りのチケット。ルイの教え子からのものだろうと解った。嫉妬の油に炎が燈る。メラメラと音をたてて燃え上がるも、平静を装って封筒の中にチケットを仕舞い、「ごめん、間違って郵便物開けちゃった」とメールを打った。
「間違って開けた郵便物はどこだい?」
 彼は帰宅して俺に挨拶してから早々に言う。テーブルの上に載せてある。と指させばルイの手がそれに伸びる。中にあるチケットを確認して俺を見た。悪戯を思いついた時はそういう顔をする。
「二枚贈られてきたってことは、僕と、君への招待券だよ」
「……」
「送り主は君が嫉妬する彼だ。どうする? いかない方がいいかい?」
 可愛く「いかないで?」と言えば、恩着せがましく彼は「じゃあ、行かない」と言うだろうし、「行け」と言えば「君が言うなら行く」というだろうし。何も言わなけりゃ、唇を尖らせて嫉妬する顔はあまり見ないからカワイイよ、と言うだろう。
「一緒に行く」 なら。
「じゃあデートだ」
 彼はこの状態を楽しんでいる。そのチケットは俺に対する宣戦布告なのですけれど、取り合いされている状態はそんなに面白いか? ニコニコしやがって。

 少しだけすました格好でコンサート会場に向かう。それほど堅苦しいものにはならないだろうが、敵陣に向かうからには気合いを入れねば。
「時計はする?」
「する」
 ペアで作った腕時計を身につけていくことにいた。指輪は鍵盤を傷つけるので、時計にしたのだ。それでも演奏中は身に着けることは無い。
 同じものを身につけるだけで気合が入るものなのだろうか。その辺は俺の占有欲が関わってくるのだろう。演奏会の会場までは車よりも歩いた方が効率が良かった。都心からはわずかに離れた場所、そこにあるビルの地下。そこが会場だ。
「チケットッと、うおぉ」
 受付が間抜けな声を発した。ルイか、隣にいる俺に驚いたのだろう。一応仮にも芸能人。握手してください。そんなお願いもにこやかに応じる、二人。どちらもだったらしい。チケットを渡すとさり気なく腰に手を回され、あっちだろうとステージ前へ導かれた。
 中は意外と広かった。俺とルイは着席し適当に注文する。普段はバーかレストランとして営業しているんだろう。ステージの上では演者と思しき奴らが準備を続けている。演奏時間までは少し時がある。ビールを二杯注文した。
「先生……」
 おずおずとした小さな声がルイを呼んだ。彼はにこやかに「やぁ」と返事する。やってきたのは演奏会最後、ルイを探していた青年だった。彼は俺にも挨拶をした。真っ直ぐ、射抜くような意志の強い瞳。沈黙を切るようにルイは俺を紹介する。
「僕の恋人」
「……はじめまして」
「はじめまして、日向春人です。知ってる?」
「イエ、あ、いえ、……芸能関係の方ってのは、スミマセン」
 ちょっと鼻を折られた。知らない人もいるだろう。テレビを見ないとかサ。
「ハルト、彼はね蜂谷直人クン」
「直人ね。ヨロシク」
 ヨロシクやるつもりはないのだけれど、人の字が被ってるねぇ。彼は挨拶を済ますと準備の為と奥へ引っ込んでいった。取り合われた真ん中のドイツ人はビールを一口飲み、俺の手に触れる。
「嫉妬深くある君も良い。彼を睨んだ時は痺れるものがあった」
「勝負ふっ掛けられたら……」
「彼が勝つことはないと知っているのに、そこまで負けず嫌いだったのは初めて知ったよ」
「自分のモノが盗られそうになったらな」
 照明が落ちると中央ステージが照らされた。八名ほどの演奏者が映画のテーマソングとなったジャズの曲を演奏する。こ憎たらしいことに、その作曲者は目の前にいる男。彼はビールを煽り、演奏に耳を傾けている。
 ドラムが弱い気がするし、難しい演奏部分を簡単にできるよう手直しがされている。軽い音になってはいるが、勢いがある。
 演奏が終わるとリーダーと思しき男性が曲の紹介と、作曲者がそこにいると告げた。ライトがルイと俺に当たる。ワァと拍手が起きた。盛り上げ上手だと関心する俺達に「ぜひ一曲!」と声が飛ぶ。ルイが席を立った。俺の腕をとって。
 右の口角が上がっているときは悪戯を思いついた時だ。
 長い長い付き合いは俺とルイの間でいくつもの秘密を作りあげた。たとえば言葉を交わさなくてもなんの曲を演奏するのか。無言の打ち合わせ方法なんてどうだろうか。俺たちの場合はそれが鍵盤で行われる。何の音を最初に弾くのかでプログラムを決めているのだ。ステージを盛り上げるための。
 ステージに上がると喝采を受けた。俺まで上がってくるとは思わなかったのだろう。直人はピアノ椅子から立ち、一歩下がる。先ずルイが座り、俺はその隣に座した。それから彼はミの音を引き、その後にレの黒鍵を鳴らす。熊蜂の飛行から鉄道、鬼火、雨の庭へと続く、それをアレンジしたものだ。
 雨の庭はルイの得意とするドビュッシーの演奏だし、叩きつけるような速い曲は俺が得意。雨の庭の後、彼は先ほど演奏していた曲の一節をダンスミュージックのようにアレンジして弾いた。ルイの手が俺を導く。この後を弾けということだろう。俺がその指示に従うと、彼はドラムやベースの変わりにキーボードを点ける。適当に調節を済ませると俺の演奏を後押しするように叩き始めた。

 その後は拍手にまぎれて、逃げた。そう、俺たちは逃げた。飛び入りで参加した後のコンサートはいつも逃走している。当り前か、注目とその日最高の演奏を奪ってしまったのだから。
「あのあと、物足りなくなるかな」
「なるよ。なんせ、僕らの演奏だよ」
 飲み直そうと決め、知り合いが店主を務めるゲイバーに入った。この店を選んだのは、この場所が“比較的”公衆前でも密着が許容されているから、俺たちは熱を治めなきゃいけなかった。年甲斐も無く、久しぶりの悪戯行為に興奮した揚げ句の。
 扉を潜った瞬間にルイから熱烈なベーゼがあって、俺もそれに応じた。店内の目線が俺たちに注目する。冷やかしの「ヒュー」って声と、冷ややかな店主の視線が飛んできた。
「若い芽を摘んできたところさ」
「違うよ、若い芽のほうから喧嘩を売ってきたから摘むことになったんだ」
「ハルトが嫉妬するのがカワイイんだ」
「黙って注文しろ」
 カウンター席に座ると俺たちの話を聞こうと店内にいる奴らが集まってきた。呆れ顔の店主、名前はトシオミがいつもの酒を出す。
 酒を煽りながら話す。送られてきたチケットの話、今日の演奏会、突然のステージ、そして興奮状態のまま逃げてきたこと。
「その直人って子、連れてきたらどうだ? こんな性悪センセじゃなくて、欲しいやつもっといるだろ?」
「一応僕の教え子なんだけど。そこは考慮してくれない?」
「アンタは三角関係を楽しんでるだろうけど、ハルとその子に言わせたらたまったもんじゃないよ」
「言ってやって。理解してくれないんだ」
 ワイワイと同士たちで飲み明かす。大学時代のころを思い出した。あの頃は無理やりの留学が嫌いで、誰ともコミュニケートとるつもりなんて無かったのに、終の頃は、なんやかんや仲良くあった気がする。
 ルイと会って俺も変わったのかな。
「ねぇ、僕が好き」
「好きだよ」
「僕もね、好きだよ。君が好き」
 猫のように俺に擦り寄る。首筋に何度もキスをされた。こういうところはカワイイと思う。俺に素直なところ。
 一しきり酒を飲んで満足したら外に出る。手を繋いで外を歩いた。酔っていると人の目も気にならない。ライトに照らされた道を堂々と歩く。
「こうして、歩いたことはなかったね」
 ルイも同じことを思っていたらしい。
 不思議だな。今更、若さが羨ましく思ったのかもしれない。俺たちがどうあがこうとも青春時代なんて戻ってはこないんだ。バンド組んで右往左往なんてもうないし、社会的な責任もいくつかある。出る杭打ったって下から突き上げられていくんだ。ああ、悲しいな。
 そして今日もぐちゃぐちゃのベッドの上で朝を迎える。二日酔いの俺に対してルイはしゃっきりしたもんだ。帰ってきたら一緒に片付けよう。とにっこり笑って言う彼は今日も大学へ行く。
 蜂谷クンに会うとしてももう嫉妬は感じないだろう。いや……どうかな。

2016/08/03

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