ルイの空想

 出会い方が違えば、僕と彼の立場も違うものだったのではないかと妄想することがある。たとえば、今居るカフェの客と給仕。窓の大きい大学生が通う通りの見えるバーのようなカフェ。多くの学生はここで食事をとる。
 そこに勤めるサンドウィッチとサラダを持ってくるケルナーがハルトで、僕はその店にやってくる客。
 僕はどこにいても彼に惹かれる自信がある。根拠はない。でも今でも思うんだ、僕と彼はいつか絶対に出会って、惹かれあうだろうって。
 大学時代から彼のことは気になっていた。同室になった言葉の通じない他国の人であるのに、その場に馴染もうとせず、一人で過ごす。だが、誰よりも才能あって目を惹いてしまう。いつまでも幼く少年のようでありながら、誰にも揺るがすことのできない決意を持つ人だと。彼が僕に口づけた瞬間、何か弾けたように思う。それまでため込んでいた彼への興味の正体と、伝えられない言葉の代わりになる「何か」を知った気分だった。
 話を戻そう。僕が客で彼がケルナーだったら。当たり前だが普通の客とそれを接客する店員として物語が始まって行くのだろう。僕は何かをきっかけにして彼に興味を持ち、そして惹かれ、言葉の代わりにキスをするんだ。
 今度は僕から。
 キスをした後、僕らは今のような関係になっていくだろう。多分、ハルトにはここで働く理由があるはずだ。おそらく彼は多くの目標を持つ人であるはずだから、それこそ、目指しているコメディアンになるために金銭をためているとかね。
 僕がこの場所に来るからには何らかの仕事をしているのだろうと想像できる。無職でもいいけど、……僕は自分が無職であることを想像したことがない。父と兄が自分以上のエリート故に、それを超えることはできないだろうと子供心に諦めはあったが、それ故の劣等感と自由が僕の中にあった。
 金がないのなら、彼が語った日本の狭い住居で身を寄せて過ごす。半纏という暖かな衣類がある事を知った。それを着て、狭い机に脚をぶつける僕を緑茶でも飲みながら笑い合うのだ。
 ああ、それもなんだかロマンチックかもしれない。
「教授」
 話しかけられて空想が止まった。目の前には私の愛する人がいる。
「奇跡?」
「違うよ。近くでロケがあって、遠目に見えたから、寄っただけ」
 もう行くけどね。ハルトは軽く片手を上げると店を出て行った。後姿を眺めていると胸が痛くなる。
 僕はハルトが先に家を出たり、別れたりする瞬間が苦手だ。それは昔、彼が何も言わずに去っていってしまったあの日に原因がある。何も言わず行ってしまった彼を追いかけたところで飛行機は出てしまった後。空を見て泣いてしまったあの日の苦しい胸の内は一生、忘れる事は無いだろう。
 ハルトは消える前に一度振り返った。僕に向けて手を振りなおす。手をあげてそれに答えるが、心の中は少しざわめいていた。いつか、また彼が消える日が来やしないか。
 不安は素直にハルトに伝えることにしている。その度、彼は僕の体を撫でながら、「俺はここにいるから」と呟いて抱きしめる。母親がぐずる子供を慰める時の所作だった。僕は彼の体を掻き抱いて、悪くも無いのに彼を責め続けるのだ。
――どうして僕の前から消えたんだい?
 夢の為だというのは理解している。それでも理不尽な怒りが止まらなくなる瞬間がある。例えば、彼との失われた数年を知る者が現れた時……。
 日本で有名なコメディアンだとハルトが僕に紹介した男。男は僕が知らない彼の若き日を知っていた。「余りにも演奏が素晴らしすぎて眠ってしまった」とジョークを語る。至って普通の、ただの思い出話だ。
 それでも僕は傷ついた。彼の隣に常に居なかった自分を悔いている。総てを捨てても彼を追うべきだった。情熱のまま動くべきだった。ルイポルト、何故あの時、彼を追わなかったのだ?
 僕も愚かではない。自分が異国の地でやっていけると思わなかった。だが、異国の地に一人でやってきて自分と張り合い、上り詰めた人を僕は知っている。愛しい人その人、僕は……、僕は彼のように勇気が無かった自分を何より恥じている。それなのに今でも彼に八つ当たりをしているのだ。
 冷え切ったカップの中に残るコーヒーをひと思いに飲み干した。この苦味は僕の心と似ている、下手くそな詩人だ。自分自身を鼻で笑った。
 席を立つとケルナーがそれを察して動く。金を払うと僕を見て「ありがとうございました」と言って笑う。このケルナーが彼だったら、僕はずっとこの場所に立ち尽くし、別れる事を嫌がるだろう。
 ――残念な事に、このケルナーは別人なので僕はアッサリと外に出る。澄ました顔で日常に戻りながら、頭の中で空想する。この横断歩道ですれ違う中にハルトが居て、僕と彼が知り合いじゃなかったら――。
 それでも、僕は彼に恋をするだろう。

2018/12/19

<<前 目次



↑戻る