ルイ教授


 ファのシャープが響いて止まった。
――Wer da?
 春の光に照らされて金色の髪が美しく光っていた。扉が開き、そこから現れた人を見て僕は息を呑んだ。憧れのあの人。コンサートでしか見たことがなかった、あの人。
「君は指が硬い」
 楽譜をめくると息が近くなる。ほんのりと香るのは整髪料の香りかもしれない。ピアノが置かれている個室は空調設備のお陰で暑くないはずなのに、僕はじっとりと汗を掻いていた。
「気分でも?」
「い、……え、大丈夫です」
「問題が無いのなら次を」
「は、はい」
 教授の指が楽譜を捲る。その動作一つに胸が跳ねる。
「今日はここまで」
 残酷な別れの言葉。
「演奏中、どうしても硬くなるように思える。もう少しリラックスして弾くように」
「は、はい。ありがとうございます」
「君は緊張しいなのかな?」
「た、たぶん。未だ、その、自信が持てなくて……」
「寧ろ自信なんて持つもんじゃないよ。大きな舞台でその自信をへし折られるほうが良いと思うよ。次のコンサートで思いっきり演奏するといい」
 次どうぞ。教授は新しい生徒を呼んだ。

 コーヒーの味がする。おはようと告げる口からほんのりと感じた。
 一足先に起きていたルイは両手にマグカップを握り、ミルクが多いほうを俺に寄越す。
「悠長だな」
「僕が言いたいよ。僕はベッドから降りているよ。君は?」
 彼はサイドボードにコーヒーを置くと、厭味を言いながら布団を剥がす。下着だけの姿では寒い。コーヒーを啜った。
「起きて、今日は初めてのコンサートなんだから」
「知ってる」
「君に聞いてほしいんだ。僕が教えた生徒たちだよ」
 日本にやってきて数年、国内一と言っても過言ではない音楽学校の客員教授として招かれることになったルイの生徒が初めて演奏する。俺が行く必要ある? と最初は乗り気ではなかったのだが、「君が行かないなら、僕も行かない」と我儘を言うものだから、俺も付き合うことにしたのだ。番組収録で夜遅くに帰ってきたとしてもね。
「ホラ、シャワーを浴びよう、そして食事を食べる、着替えて……」
「相変わらず母親みたいに」
「君と生活しているとそうなるのも仕方がないだろう? 放っておくとベッドの中にずぅっと居るんだから、日曜の五時以外はね」
 指先を握られて浴室まで連れて行かれる。シャワーヘッドから溢れる湯が彼の体を滴って俺に落ちる。長い指が髪の毛を梳き、本当に子供のように洗われる。俺を洗いながら登場する生徒のプログラムを説明され、何の曲を演奏するのか告げられた。
「君の好きなプロコフィエフもあるよ」
「上手?」
「…少し硬い。破壊力は君に及ばない」
「そう? ……破壊力?」
 髪を拭きながらリビングに向かい朝食を食べ、着替え、キスして、外に出る。ルイの運転で大学まで向かう。教授用の入り口から入り、ゲストとして招かれるためのパスを貰った。演奏のためにホールに入ると三十分前には既にホールが埋まっていた。
「俺、ちゃんと見る側は初めてかもしれない」
「全員出席の定例演奏会でも君は途中で寝始めるしね」
「苦手なんだよ。他人の演奏を評価するのも嫌いだし……それに」
「僕らが一番だったからね」
 ホールの電気が落ちるとルイは俺の頬にキスをした。舞台裏で襲わないだけ大人になった。そう思おう。
 最初の演奏者がたどたどしくステージ中央にやってくる。未だ未熟、だけどここにいるのは日本の中でもトップの子ばかり、時折に「おっ」と思う瞬間がある。演奏が終わった後、拍手の音にまぎれて感想を言い合った。あそこはよかった、ここは悪かった。もっと間を置いたらよかったなどなど。
 最後の奏者になった。彼は落ち着きなく観客席をくるりと眺める。
 ここから少し、俺の勘になる。ステージに上った最後の演奏者はルイを探していた。彼の眼はルイで止まりようやく挨拶をすることを思い出したのか頭を下げた。演奏曲はプロコフィエフの二番第四楽章。ルイの横顔をチラと見る。彼はじっとステージを眺めていた。
 おびえる青年の演奏はプロコフィエフの叩きつけるような演奏とは真逆の、繊細な演奏で聴衆を楽しませた。指導者であるはずのルイは僅かに表情を変え、まるで初めて彼の演奏を聴いたかのように驚いている。
「斬新なプロコフィエフのアレンジだな」
「……」
「指導の賜物か?」
「いや……」
 ルイは首を傾げるばかりだった。
 すべてのプログラムが終了すると、彼らをねぎらうために舞台裏に向かうことになった。俺も行こうと誘われたが一応顔が知られている部外者であることを理由に断った。車に戻りルイを待つ。彼と生徒たちは何を話すのだろう。
 特に、最後の演奏者とは。
 じりじりと嫉妬の炎が燃え上がっている。舞台裏で今夜の感想と反省をしているのだろう。俺たちが大学生の頃、互いに言い合っていたように。このあと打ち上げとかあるんじゃないのか?
 ノックの音で正気に返る。
 ルイが「おまたせ」と言いながら扉を叩いていた。少しあわてて扉を開ける。
「感想、伝えたのか?」
「ねぎらいの言葉だけ。それは後日にしたよ。この後、バーに行くらしいから、まずい酒になる奴もいるからね」
「ん」
 行かなくていいのか? と聞くのはやめた。こちらに来たということは彼が俺を優先したということだ。都会の喧騒の中、車を流しながら何かしらの会話をしている。
「ねぇ」
「ん」
「つまらなかったかい?」
 赤信号で止まっている時、ルイが顔を覗き込んできた。
「いや……、楽しかったけど、どうして?」
「気乗りしない返事が続いてるから」
「あー……」
「眠たいのかい?」
「……いや、寧ろ、冴えてる」
「そうかな」
 そうは思えないんだけど。と、言葉は続く。沈黙が重い。
「ねぇ」
 マンションの地下駐車場、車を停めながらルイは言った。
「隠し事がある?」
「ないよ」
「僕に言えない?」
「言いたくない」
「じゃあ、こっそり教えて」
 悪戯に彼はいう。意味ないじゃないか。彼は顔を近づけ俺の左耳を噛んだ。教えてと。
 それを許してるあたり俺も俺というか。情けない。フゥとため息一つ吐き出して、耳を噛んでいたルイを向く。
「セックスしたい」
「いいけど……、どうしたの?」
「再確認」
「何を?」
「あ、愛されてるかどうか?」
「存分に愛してるけど、その誘いは断らないよ」
 車を居り、エレベーターに乗る。俺から言い出すことは珍しく、彼に火を付けたらしかった。監視カメラが気になる密室で勢いのまま服の上からまさぐられる。俺たちが住む階層に辿り着いてからも誰にも会わないのは幸いだった。少し肌蹴た服のまま勢いで玄関を開け、そのまま部屋に雪崩れ込む。玄関に靴を捨て、廊下に服を捨て、露出した肌を触れ合わせ、弄る。ベッドの上に雪崩れ込む時には下着に指が掛っている。
 言葉を発するために唾液混じりの唇が離れた。
「愛してるよ」
「うん」
「言葉じゃないよね。何が欲しい?」
「わからない。証明、あー、違う、安心」
「安心?」
 意外そうな顔のルイに向かって、熱の勢いで言ってしまおうと思った。
「学生のころが懐かしくなって」
「うん」
「あの頃は、ルイが俺のことばっかり言ってたなって」
「君はずっとライバルだったからね。でも、違うよ。今もずぅっと君のことを言ってる」
「ピアノ室で、ルイの演奏を聴いたり、俺の演奏を聴かれたり」
「うん」
「それができないのが、なんだか寂しい」
「ハイ、“カワイイ”、“チョーカワイイ”」
「真面目に思ったんだよ、俺はよ」
 厄介な言葉を覚えたもんだ。
 前にルイの熱が当たる。俺の熱と触れ合って小さく震えた。大きいが繊細な指と手のひらに包まれ、小さな水音をたてながら擦れ合う。ルイは何度も俺に「カワイイ」を繰り返した。そんな年齢じゃないんだけどなぁ。
「ハルト、僕は生徒の向こうに君を見てるよ」
「ン……」
「この仕事を引き受けたのも君が仕事で忙しい時だけ、将来の演奏家のためというのも一つあるけれど、その生徒たちの演奏を眺めていると君を思うんだ。個室の中で演奏している生徒の姿を見ていると、ユニバーシティで君が演奏していた時を思いだす」
 ルイの顔がまた近付いた。
「ねぇ、僕ら、一緒だね。あの時を懐かしんでる」
「ふ」
 水音が激しい。気持ちイイ。いきたい、ルイが好き、頭の中でそんな考えがぐるぐるする。
「ずっと君が好きだよ。愛してる。愛してるよ」
「うん、ん、う、ン」
「望むならずっと言う」
「も、イイっ」
「Ja」
「――好き」
「もう一回、言って」
「すき」
 悲しそうとは少し違う、切ない顔でルイは何度も“カワイイ”と繰り返した。ごめんね、こんな思いをさせて。君が好きだから、君を思える場所にずっと居たかったんだ。僕をこんなに愛してくれていたのにね。オトナになって寂しかったのは僕も一緒だ。
 思い出したことがある。再び俺たちが出会ってからの話。
 日本で仕事を始めたルイが突然俺の体を折らんばかりに抱きしめた日があった。眠っていた俺が息苦しさで目覚める程なのだからよほどの事態で、首筋に当たる唇の感触も性急で混乱するばかり。首から唇を離した彼は言った。
「戻った」
「戻る?」
「あのころに」
「そうだね」
 彼は覚えた日本語で「カワイイ」と言った。何がカワイイだとあの時は思ったけれど、愛しくて愛しくて堪らないからそう言う外なかったんだ。
「学生の時はずぅっと一緒にいたのにね」
「そうだね」
「悲しいなぁ。ハルトと四六時中、居たい」
「滅茶苦茶言うなよ」
「今こそ、ずっと布団で一緒に眠っていたいと言ってほしいのに」
「……、そうだね」
 それもいいかもしれない。誰に奪われる危険もなくこの場所でずっと一緒に。でもそれはできないとわかっているし、望まない。俺は彼がピアノに向かっている姿が好きだ。今の仕事もやり続けたい。最後に演奏していた自信なさ気な青年を思いだし、また少し嫉妬の炎が燻った。

 翌朝、朝食を食べながらルイに言う。
「最後に演奏していたヤツ、お前のこと、好きだろう」
「ウン。指導中、すごく面倒だよ。僕の前で硬くなるんだ」
 あっさりと認めた。
「……だからプロコフィエフを勧めたのか。滑らかに演奏できずとも、叩きつけるように演奏しろと」
「あれはミスだった。考えてみれば、君はのびのびと弾いていたし」
 ルイは遠くを見た。フゥ、と息を吐く。実力はあるのにね。どこでも発揮しなくちゃね。
「……ハルト、君の協力で解決するかもしれない妙案が浮かんだのだけれど」
 何も言わなかった。冗談めかして言うときは残酷で嫌な事だろう。
「僕と君が一緒にいる所を思い切り見せるのはどうだい。吹っ切れると思うのだけれど」
「さすがにそれは」
 スキャンダルが云々。ごにょごにょと誤魔化してしまった。
「困ったなァ。恋心を捨てろと言えばいいのかな?」
「言ってくれると助かります」
「望むなら」
「……向こうの気持は考えないのか?」
「どのみち断る羽目になるんだよ」
「誤魔化されたら?」
「『気のせいならよかったよ』」
 コーヒーが苦い。

 ぼんやりとポスターを眺めていた。憧れの人がそこにいて、ピアノを弾いている。
 僕はこのポスターが撮影された場所にいた。教授はそこにいた。美しい旋律、空気が痺れるほどの。目の前で彼の指を見たときには、熱のようなものを感じた。今まで考えることもできなかった新たな熱。それは欲だ。夢に見る程の。
 扉が開くと彼が入ってくる。楽譜を置いて挨拶を交わす。
「演奏会では驚いたよ」
 彼は僕の前に来てそう言った。心臓が跳ねる。褒めて欲しいと思った、その一心で滑らかに演奏するよう努めた。
「あの曲は激しい。しかし、君の演奏は静かだった」
 予想外の答えに動揺した。今までの指導を守れたと思ったのだが。
「謝罪すべきかもしれない。指示を間違えた。君は私の前だと硬くなるのだね」
「ち、違います。僕は……」
「違う。なら良い。あのような伸びやかな演奏をしてくれるね?」
「あ……」
 それ以上、言葉がなかった。

2016/06/15 

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