南へ! 2

「起きてください!」
 焦ったような声で起こされた。横になっていた筈なのに、俺は今、縦になっている。ユウマの体に包まれたまま、立ち上がっていた。目を擦ってから窓を見る。真っ白になっていた。
「何これ?」
「触ってみればわかります。霜では?」
 冷たい。窓ガラスの端から中心に向かって霜が張っている。ゼリー状の体が離れると寒さに気付いた。長袖なんて持ってきていない。ホテルにある浴衣を羽織って外に出る。
「どうなってるの?」
 異常気象に宿泊客はパニック寸前だった。穏やかに暑い日を過ごしていたのに。突然の冬景色なのだ。誰かが拭いた窓の外は真っ白、空だけが青い。先まで緑一色だった自然風景が、一面白に変わってしまった。
 ロビーには混乱した人々が集まっていた。海釣りに行こうとしていた釣り人が困ったように外を眺めている。深々と降る雪は島すべてを覆い隠そうとしている。暖房の入っていなかった離島のホテルは冷えはじめ、そこかしこから「寒い」「冷たい」と悲鳴があがる。皆の吐く息が白い。北の国で過ごす俺の肌感覚によると、この気温は二月半ばのものに近い。気温がマイナスなんてことになったら、零限島の生物が死ぬ。
 居ても立っても居られず、俺はホテルの外に出た。濡れた石造りの道に足を取られ、ひっくり返りそうになったが、ユウマに支えられた。
「大丈夫ですか?」
「あ――」
 ひっくり返った俺はホテルに掛かる白い雲を見た。雪雲だ。ホテルを覆うように白い雲がある。そこから雪が落ちているのだ。屋上だ! と叫んで俺はロビーに集まる人を押しのけ、エレベーターに乗り込んだ。ユウマが慌てて俺の後を追ってきた。「あっ」俺は彼を乗せ忘れたまま「閉」のボタンを押してしまったのだ。閉じた密室は上へ上る。屋上の一階前でエレベーターは停止し、扉が開いた。
「一人で先に行くなんて!」
「あ……、わり」
 エレベーターを必要としない生物はもうそこに居た。
「貴方は“完璧な人”なのですから。無茶はしないでください」
 その言葉を言われながら俺の体は彼に包まれた。いつもは俺を包むコーヒーゼリーの塊が今は俺を守る鎧になった。だが、それはホールドしているだけで、動いているのはユウマなのだ。動く度に体は動くが、意思なんてない木偶も同様、ユウマの声が頭蓋に反響した。
 ――暫く、我慢してください。
 ユウマの手が屋上に続くドアノブに伸びた。冷気が俺にも伝わって来る。扉を開くと吹雪が体を襲った。霜の花が鎧に付着する。白い雲の下に瑞名が居た。大きなカバンを開く彼から伸びる光の柱、そして舞う光と氷の粒。サンピラーだ。
 神々しくあるのにどこか寂しげな彼を見た。気づくべきだった。船の中でスーツを着込んでいた彼に。
 鞄の中に北の国から持ってきた霊性を持ち歩いていたから暑い筈なのに「寒さ」を感じていたんだ。
 瑞名は悲痛な声を上げた。
「お願いです。最後までやらせてください。零限島は在ってはならないのです! この島の霊は永遠にこの場所を彷徨っている!」
 ユウマの体に霜の花が咲いた。背が伸びた。鎧から生み出された黒い触手が北の国から連れてきた霊性を入れていた鞄とサンピラーから伸びる光の粒を飲み込もうと動いた。瑞名はそれに抵抗した。伸びる触手に体当たりし、噛みつき、涎を零しながら何かをわめいている。触手がサンピラーの中にあった光の粒を包み込んだ。俺の目に姿は見えていなかったが、ユウマの体が『ソレ』を飲み込んだことで、子供のような、小さな「物体」の形が見えた。触手に包まれたからだろう。クスクスと笑う子供の声が聞こえて来る。歌を歌っていた。どこか懐かしいような、澄み渡るような――。
 子供がユウマに吸い込まれた事で空に掛かっていた白雲は晴れ始めていた。ちらほらと振り続けていた雪も、零限島である本来の暖かさが溶かし消す。
 それでも瑞名は抵抗を続けていた。返せ、返せと叫びながら触手を掻きむしろうとする。弾力ある肌には傷が一切付かなかったが、瑞名の手が黒い液体の中に入りこんだ。いつも俺を飲み込むように。だが、様子がおかしい。彼は大口を開け、聞くに堪えない悲鳴を上げた。それも次第に黒い液体に飲まれ、消えていく。瑞名の体すべてを液体が覆うと形を保っていた体が消え、伸ばされた触手は鎧となったユウマに戻る。仕事を終えた鎧は俺から離れ、向こう側に盛り上がった黒い液体が固まった後、肌の色を白くした。人の形をしたユウマがそこにいる。
「彼は?」
 瑞名の事だ。瑞名はもうここに居ない。
 ユウマは瞳を伏せた。
「彼は“溶かす”しかありませんでした」
 俺は口をぽかんと開けて答えを反芻していた。溶かす。溶かす。
「彼は死んだ、のか?」
「はい」
「どう、して?」
「彼が人の生活を脅かす罪を犯したからです」
「で、でも、どうして、どうしてそんなことしたのか、理由も――」
「理由を聞く必要は無い、と正義の者協会は判断しています」
 彼はこの島に住む人の生活を脅かし、我らにある四季の概念を犯そうとしました。それはここに生きる生物を脅かす罪深い行為です。先まで降っていた雪で、死ぬ生物もいるのです。
 わかっている。彼が罪深い事をしたことはわかっているけれど、心が付いていくかは別の問題だ。納得できずに取り乱す俺の頬にユウマの手が触れた。とても冷たい、凍えた手、指の先から歌が聞こえてきた。早く、早く、お家に帰りたい。その音はまた俺を乱した。
 
 瑞名の不明にロビーは騒ぎになった。警察は散歩に出た瑞名は島の何処かで迷い、降り出した雪で体力を奪われ、どこかに隠れたのではないかと推測する。彼の身体が無いことは知っている。俺達も瑞名について質問された。瞳を泳がせた俺に警察は不振を抱いたらしいが、ユウマが船の中で会話したことを告げ、心配していると話すと納得はしたようだった。
 心浮かれていたホテルの内装もつまらない物に成り下がった。二度とこんな思いはしたくないが、正義の者協会に所属したからにはこういう事が多くあるのだろう。
 夏彦もそんな感情を抱いたのだろうか。だけど、アイツは事実は事実として切り捨てそうだから、俺のように悩んだりはしないかもしれない。
「矛盾してないか」
 納得しきれない感情が口からあふれ出る。
「正義の者協会は人の生活を脅かすものを壊してる。でも、それって正義の味方だってそうじゃないか。彼だって……瑞名だって人の一人だ」
「そうですね」
「じゃあ……」
 生かしても良かったんじゃないか? その答えは出ない。俺の頭ではダメだった。だが、腕を組んだ甥が俺の思考に反論する。「瑞名はあそこで死ぬべきだったんだ」
 あそこで瑞名を溶かさなかったら、彼は正義の味方について大げさに吹聴するかもしれない。それは、この国の政府にとって悪い影響だ。正義の味方はあくまでも機密裏にそれを処理するべきであって、政治家ではないんだ。瑞名があそこで処理されることは彼自身理解していたことだろう。セイさん。あんたが気にすることは無い。これは自業だったんだ。
「貴方は悪くない」
「うん」
「だからどうか泣かないで」
「うん。……一番辛いのはお前だよね。嫌な役割だもんな。ごめんな」
「……いいえ」
 彼は業と俺から片方の手を離していた。さっき俺の耳に当てた冷たい手だ。それに触れる。やっぱり冷たい。きれいな顔が泣きそうに歪んだ。

 零限島から帰るフェリーに涙を流しながら乗り込む瑞名夫人の姿があって胸が痛んだ。きゃあきゃあ騒ぐ女性たちの声だけが救いだ。彼女たちは突然の超現象すら楽しむ余裕があった。俺たちはしんみりと、少し落ち込みながら個室で時間を過ごす。俺は生きた本を読んでいた。
 ――泣きつかれたのか清介が寝息をたてる。ユウマはベッドから離れ、私の隣に来た。「記録してもらえますか」と穏やかに述べた後、彼は私に話しかけた。「自分を慮られたことが嬉しかった」と。「彼に伝えてくれますか?」と語って笑った。彼は体に封印した北の国の精が起こす影響で身震いした。大理石の上にあった手の下が結露している――。
 暫くは本から見た部屋の状況や、俺の寝息に関することなので割愛する。本は最後のページをこう締めくくった。
 ――心の内を知った彼の顔は少し穏やかに笑んでいた。昨日まで泣いて、落ち込んでいたのに。単純な男だと思う。「うるさいなぁ!」と言い、彼は私を投げ捨てた。外は暑く、穏やかだった。

2015/06/20

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