北の国支部
目を開けた俺の身体は石油のように真っ黒なゼリー状の液体に包まれていた。液体を掬い上げようとして、その弾力に腕が引き戻される。俺が起きたことを感じたのか黒い液体は隣で目を閉じていた彼の身体に吸い込まれた。目を開けた。グリーンの瞳が俺を見る。
「今の。もう一回やって」
俺はまだ現実と微睡の狭間を行き来しながら彼にお願いした。ユウマの体、その一部が黒く溶け、俺の体を包み込む。暖かい。ぶよぶよして、とても気持ち良い。見た感じはコーヒーゼリーに似ている。温かなコーヒーゼリー。それに包まれている。
意識が深く落ちようとしたとき。コーヒーゼリーが俺を圧迫した。「起きなければ」とクソ真面目に言う。俺を包んでいた温かなものが離れた。寝る気を削がれて起き上がる。
そう言えば、今日は北の国の支部だか何だかにいかなければならないんだった。名前はええと、正義の者協会、北の国支部。どこにあるのか俺は知らないのでユウマ頼りだ。その後は図書館に行って、本を返して、借りなきゃいけない。
くぁあとあくびしてだらだら準備する俺に、体を整えるだけで準備が済むユウマは焦れている。まだ朝八時だよ。もうちょっとのんびりしても大丈夫だよ。
歯磨き、洗眼、食事、ちょっとニュースを見て、水飲んで、トイレに行って。別に用を足す訳でもなく甥のパソコンに「今から正義の者協会北の国支部とやらにいってきまーす」とメールを送る嫌がらせの後、トイレから出た。ユウマはもう玄関に居る。気が早い。俺は財布と携帯を持てばいい。部屋の鍵? 財布についてるよ。
外に出ると静かになったお隣さんと出くわした。俺たちを見ると小さな声で挨拶して通り過ぎていく。初めて彼女を見た時の根拠のない自信はどこへやら、縮こまって少しかわいそう。
アパートを出、ユウマは清見ケ丘駅方面に歩き出す。電車に乗るのかと思えばそうではなく、駅前を素通りしただけ……。いや、彼は有人の改札まで歩くと身分証のようなものを提示した。スイカ? ちがう。駅員は壁の一部を押してそこに開いた穴に彼を促した。ユウマは俺を示して「彼もです」と断りを入れる。俺は小走りで離れていた距離を詰め、改札隣の穴をくぐった。向こう側に光は見えるが、足を踏み出した瞬間に底に落ちていくのではないかという恐怖があった。俺たちが入ってきた穴は閉じられた。
「危ないですから」
ユウマの白い手が俺の手を掴んだ。彼の体温は俺より低い。手汗掻いてないか変な心配ばかりしている。彼に手を引かれ、光まで真っ直ぐ歩いた。僅かな時だったはずだ。だが、長く長く感じられた。
真っ白な光に近づくにつれて、そこが外の光であると知った。俺たちはぽつんと立つ四角い混凝土の建物の前にいる。銀色のドアに丸いタイプのドアノブがついた簡素な建物、彼はそれに手を伸ばし、扉を開くと階段が見えた。石造りで、下まで伸びている。
この階段は覚えがあった。夏彦の部屋から正義の者協会まで続いていた階段だ。ころがり落ちないように慎重に、一段一段降りる。夏彦の家にあった階段よりは段数が短く、通路もやや狭いが、そこを真っ直ぐ歩くと六方向に道が伸びており、ちょっとしたコンビニや本屋、休憩所などがある。椅子に座って女の人と、毛むくじゃらの怪物が食事をしながら話している横を、白衣の男が忙しそうに通り過ぎていった。
「ここが、正義の者協会。北の国支部です」
秘密は足元に広がっていた。
「失礼します。栗木です」
「どうぞ」
北の国にある協会の支部長はすらっと背が高く足の長いパンツスーツの女性だった。黒い髪の毛を一つに纏め、ユウマと共に来た俺を値踏みするように観察し、資料を捲る。
「貴方が月見清介さん」
「はい」
現住所と生年月日、出身校等を確認された。まるで面接だ。志望動機はと聞かれたら完全にそうだったろう。ただ、自分の身分を確認されて「はいはい」言った後、差し出された紙にサインするよう求められた。
契約書のようなものだった。
「……細かくいろいろ書いてますけど、なんですか? これ」
「貴方を当協会が保証することに同意するか否かのサインよ」
「それはつまり?」
「貴方がそれにサインをしたら、正義の者協会が貴方へ仕事と身分と、各保険、保障をあげるわ。ただし、怪我、精神障害、PTSD等ね。負う可能性があるってことを認める上でのサインをお願いするわ」
「……」
躊躇う俺に女支部長はこういった。
「命に関わる仕事が多いってことはそれだけ給与にも上乗せされるってことよ。危険手当ってやつね。貴方の場合、今日までに四体の怪奇を発見または対処しているから、一体四千円として、一万六千円ね。最初の三か月は北の国のアルバイト自給と同じとしても、二十四時間、三百六十五日、栗木と共に居て怪異と対峙するのであれば貴方が抱える金銭問題はあっと言う間に解決するわね」
「やらせてください」
「サインしたらね」
上手く乗せられた気もするが、俺は目の前の書類にサインした。彼女は俺の情報が記されているであろうファイルにそれを挟むとコピー用紙を手渡した。
「貴方だけの特別任務です」
そこには月一で報告書を提出するという任務についての説明が書かれていた。報告は栗木ユウマについて、生活する間で起こる栗木の変化や、日常生活の様子など、できる限り『詳細』に記すようにとのお達しである。
「ま、頑張ってちょうだい」
「へぇ」
岡っ引きのような間抜けた音を発した俺を女支部長は手の甲で追い払った。失礼しますと頭を下げ部屋を出るユウマに倣って俺もそうする。栗木ユウマについての報告書と言われても、俺は作文がとても苦手なのだ。困ったなぁ。
「特別任務なんて、すばらしいですね」
「……うん」
「何をするのですか?」
「うーん。うん。日記を書けってサ」
なんとなく、彼に任務内容を話す気にはなれなかった。自分を観察されるなんて、嫌だろうから。
元の道を戻り、図書館に行かねばならない。昼近くなって中央広場も少しにぎわってきた。先に座っていた毛むくじゃらの生物と女の人はどこかに消え、その場所には白衣を着た研究者らしき人物が並んで座っていた。
階段を上り、手を繋いで通路を歩く。何もない壁をユウマが押すと穴が開いた。有人改札を通ろうとした際、駅員が「落とされましたよ」と言って俺に何か手渡した。
それはしっかりとしたカードだった。正義の者協会と書かれたカードに俺の名前とどこで撮ったのか、写真が印刷されてあった。ここに来た時、ユウマが彼に見せていたのはこれだろう。俺はそれを財布に仕舞った。
図書館に到着するまでの間に、ユウマは飲み込んだ本を取り出していた。手に持っている本はどこからどう見ても普通の本だ。生きた本なんて嘘じゃないのかな。
図書館の中は相変わらず、ホームレスが座って読書している。返却窓口に本を置き、返却手続きを取る最中、ユウマが正義の者協会から発行された自分の身分証と、一枚の紙を差し出した。ちら、と見えたところによると、それはその本を正義の者協会が引き受けるという書類なのだろう。紙を受け取った職員の女性は戸惑ったように周囲を見回す。様子がおかしい事に気が付いた受付の職員が彼女から紙を受け取り、少々お待ちくださいと断ってから電話を始めた。生きた本はユウマが持っていた。室内を見回す。時計がカチカチ音をたてている。視線と、本を捲る音が嫌に耳に付いた。お待たせしました。の声と共に職員が戻ってきた。救われたと思った。胸を撫で下ろす。
「確認がとれましたので――本をちょっと」
彼はユウマから本を受け取ると、貸出カードを抜き取り、そこに何か書き込んだ。
「もう持って行って大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
彼が礼を言い、頭を下げたので俺も頭を下げなければいけない気がした。ユウマが本を手に取ると、早く出ようと促した。
ホームレスたちがこっちを見ていた気がしたんだ。
図書館から外に出るまで、俺はなぜか息を止めていた。外の空気を吸い込む。室内の不安から解放された俺をユウマは心配そうに覗き込んだ。図書館の入り口側に立っていたユウマの背後、本を読んでいたホームレスの一人が出て来るのが見える。
「は、早く行こう」
ユウマの袖を引く。彼は振り返り、俺たちを追ってきたらしいホームレスの存在に気付いた。俺を庇うように前に出る。ホームレスはゆったりと俺たちに近づいて、口を開いた。虫歯の多そうな、黄色い歯が見える。
「それ、もってっちまうのかぁ」
“それ”とは、本の事だろう。
「悲しいなぁ、その本が俺たちの生きがいだったのに。まぁ、仕方ないかぁ、人さまの人生なんて、本当は覗くもんじゃねぇからなぁ。なぁ」
誰に話しかけているのか、それは解らない。ただ、彼は「さみしいなぁ」と言いながら俺たちの横を通り過ぎて、人の中に消えた。彼はどこに行くのだろう。もう図書館には来ないのかもしれない。ユウマは彼の後ろ姿を眺め続ける俺の頬をつねった。
「彼は彼で、僕らは僕らです」
忘れないで。それは俺への警告なんだろう。
俺とユウマは駅近のハンバーガショップに入った。すれちがう高校生がユウマを見て「うわっ」と声を上げ、そそくさと通り過ぎていった。帰りがけにちらりとこちらを見る。彼女たちが完全に下に降りると俺とユウマ二人だけがその店に居た。服から見える手首から先が形を変え、彼の体内に収まっていた本が取り出された。彼はそれをパラパラと捲って何か確認しているようだ。生きた本。俺はまだそれを信じていない。
本の終盤で適当に捲っていた彼の手が止まった。指が文字をなぞる。彼は俺の方にクルリと本を反転させ、「読んでみてください」と言う。俺はハンバーガーにぱくつきながら彼がなぞった文字列を読んだ。日付は、今日から一週間前。
――清見ケ丘図書館から真っ直ぐ歩いた場所に部屋はある。男は鍵を取り出して嬌声響く古びたアパートに入った。この場所は最悪だと考えていたに違いない。男は私を読みながらつまらなさそうに足先を動かしている。チャイムの音が鳴り、彼はそれに向かって歩いた。男は部屋の中に来客者を招くと彼に蕎麦を勧めた。来客者はこの部屋に似合わない程の美男だった。男が用意した茶を啜りながら、うるさい壁の向こうを眺めている。男はキッチンから蕎麦を持ってくると箸を差し出した。来客者は蕎麦汁は呑むが、蕎麦に手をつけようとしない。男がフォークを持ってくると立ち上がり、キッチンに隠れたのを見ると、美男は舌を伸ばし、蕎麦を絡め取った。人ではあり得ない動きだった――。
ゾッとした。本は俺とユウマが会った瞬間を記録している。ユウマの体内に会った時はその体の中がどうなっているのか、その感触が記されている。「ぶよぶよとした何かに包まれている」と本は書いていた。最後のページは真っ白だったが、そこに文字が刻まれていく。
――男は私の存在を確信したようだった。先までかじっていたハンバーガーをソファーの上に落とし、夢中で私の言葉を追いかけている。私の言葉を読んだ後、彼は慌てて落としたハンバーガーを拾い上げたが、食欲は失せたらしい。男は本を――。
その通り。俺は本を閉じた。指さして質問する。
「コレ、どうするんだ?」
「破棄だと思います。正義の者協会は人間が営む社会生活を真っ当に送る事が目的ですから、個人の権利を侵害する書物が残されているのは好ましくありません。破壊命令が下るでしょう」
「ふぅん」
ユウマは本を取り、それをまた飲み込んだ。おそらくまた「ぶよぶよした何かに包まれた」と記されるのだろう。食べ残したハンバーガーと飲み物を捨て、家に戻る。その間、俺はあの本に何か使い道がないだろうかずっと考えていた。
次の日、俺たちは正義の者協会北の国支部に向かっていた。理由は単純。回収した本をどうするべきなのか聞くためだ。ユウマの体内にある本は支部長に渡されたらどうなってしまうのか、いや、おそらく焼却処分なのだろうけれど、でも、俺はあの本に価値があるんじゃないか考えていた。そうだなたとえば。
「レポートとか」
率直な意見を本を持つ支部長に伝えてみた。彼女はユウマから本を受け取ると「ご苦労様」と言って俺たちに下がるよう命じる。ライターの火を点け、本を燃やそうとしたぎりぎりで彼女に意見した。
「俺、作文苦手なんで、『チューリップはきれいだな』程度しか書けませんから、その本が記録取ってくれると助かるんですけどぉ」
「……だめよ。持っていたら読むでしょ? 他人の記録なんて楽しいものじゃない」
「じゃあ、その、他人の記録部分だけを切り取って、後は俺が保管するってのは……」
アイラインバッチリの目元が俺を睨んだ。キレるような瞳だ。彼女はしばらく思案したのち、俺の家にユウマが押しかけたあの日、その前日までのページを掴むと引きちぎった!
彼女は俺に向けて本を投げつける。くるくると回転した本は俺の手元に収まった。残ったページを開く。本は今の出来事をしっかり記録していた。
――ぶよぶよとした皮膚の中から私が取り出されると、化粧をした女が居た。女の部屋は大量の書類と本で満たされている。彼女は机の上に置いてあったジッポライターを私に向ける。私はこれから消し炭になる覚悟をしたが、それを止めたのは男だった。――男は私に価値があると言った。男は女からレポートの作成を命令されていたらしい。女は苦い顔をしたが、男が自分の作文の腕を披露すると私が過去認めてきた人々の記録を破り捨てた。女は私を放り投げる。男がそれを受け取った。私の生命はどうやら僅かながら得たらしい。過去、様々な主人が居たが、これほど馬鹿な面をした男の元に来たのは初めてである。男は私が記した文章を読み――。
本を閉じた。今からでも消し炭にしてやろうか!
2015/05/23
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