木枠
不思議生物と生活を始めてから三日目経った。俺は彼にこの部屋の中を自由に動いてもいいと言う許可を出した。命令があれば動くらしい彼はクローゼットを開き、靴箱を開き、トイレを開いて、風呂場の洗剤等が入って居るキャビネットケースを開ける。自由の範疇が俺と彼では違ったのだ。炊飯中の炊飯器を開けられた時は殺意が湧いたが、俺が悪かったのだと自分を諌めた。
キッチン探索を終えた彼はベッドの下を覗き、窓を開けた。ぴぃぴぃちゅんちゅんと穏やかな鳥の声が響いている。響いて、響いて。近い。
鳥の声のうるささにバイト情報誌を放り投げて窓を覗いた。カーテンを開いたまま止まる彼の横から覗き込む。送電線の上に乗った小鳥の群れが俺の住むマンションを睨んでいた。本当に、鳥というのは、敵意を感じさせないために敢えて目を逸らす物だと俺は思っている。嘴が真正面を向いている。
ユウマは俺を突き飛ばすと勢いよく窓を閉めた。鳥の群れが俺の部屋に体当たりしている。バタバタと音をたて、ガラス窓に赤い、血が付いた。体当たりした瞬間に、鳥から噴き出たものだろう。血の下にはその衝撃で死した鳥の亡骸が広がる。
腰を抜かす俺を彼は助け上げた。血溜まりの広がるベランダを呆然と眺めている。俺は彼に腕を取られたまま、鳥の死骸を眺めていた。何分間の事かわからないが、頭の片隅は保健所の連絡先を調べなきゃと俺に指示する俺が居る。
繰り返し息を吐きだして、震える指で近所の保健所を探し出した。電話相手は落ち着きない俺の様子を訝しんだようだったが、窓に鳥が体当たりをして、と説明をしたあたりで事情を察したようだった。五分程度でやってきた保健所の職員は先ず応対したユウマに見とれ、窓の下に広がる鳥の死骸と、ガラスに付いた血の飛沫に驚愕したようだ。
彼だけでは処理できないと言われ、俺の部屋は警察が来た時の様に物々しくなった。白衣を着た学者風の男が来ると、窓ガラスとその周辺で起こる異常性を写真に撮り、鳥が体当たりしてきた状態について詳しく質問をしてきた。
窓を開けた、鳥が真正面から睨んでいるように見えた、鳥が突撃してきたので、ユウマが窓を閉めた。鳥は集団で思い切り窓にぶつかってこの有り様。
俺たちの話は保健所職員のメモに纏められ、鳥の死骸は袋に詰められていく。窓ガラスとベランダの汚れ……を完璧にきれいにはしてくれないのだそうだ。特殊な清掃をしている業者を教えて貰うだけだった。彼らが去った部屋はがらんとして、途端に鳥たちが体当たりしてきた不気味な情景を思い出す。身震いしてカーテンを閉めた俺の顔にユウマの手が触れた。
「色が悪いですね」
「『顔色が悪いですね』って言わないとつたわらねぇよ」
「顔色が悪いですね」
うん。あの風景は気持ち悪かった。俺はまた息を繰り返す。特別な清掃業者の連絡先に電話をして、清掃料に驚いた。万札が数枚飛んでしまう。
自慢じゃない。が、俺は今無職である。来月の家賃や生活費に悩む日々を送っているのだ。だが、ベランダに残る赤いシミは嫌だった。引っ越ししたばかりでまた引っ越すのはさらに出費だ。俺は悩みに悩んで清掃を頼み、通話を切った後また電話を操作した。
耳に電話を当てて、出ろ、出ろと念を押す。リリリリリと鳴り響く電話の音の後出るであろう、不機嫌そうな「ハイ」の声を期待した。電話はつながった。だが、響いたのは「はぁい」という少し間延びした声だった。
「あれ、……えっと」
『……日向です』
間を置いて相手はそう言った。ああ、そう。と胸をなでおろす。まさか間違い電話ってことは、無くて良かった。
俺は相手に「月見です」と伝える。相手は苗字だけで悟ったのか保留にすることも忘れて、大きな声で叫んでいるようだ。
――ひゅうがなつくぅん、電話だよぉ。月見さんから。
――切ってしまえ。
聞こえたぞ。我が甥よ。
『でたくないみたいです』
電話の向こう側にいる誰かは馬鹿正直にそういった。普通、そういう時は濁すもんだろう。俺は懸命に頼み込んだ。緊急なんです。夏彦に変わってください。
電話の向こうの誰かは「必死だよー」とのんびり伝えてくれた。ため息と足音が近くなる。向こう側でガサガサと音がした後、「金は貸さない」と先制パンチの不機嫌な声だ。
「知ってる。でも、今は緊急事態! 俺の部屋の窓に鳥がぶつかった!」
『保健所に電話しろ』
「電話したけど! 電話したけど! その、数が尋常じゃないんだ! ベランダ窓の下が真っ赤に染まって、特殊清掃頼んだら三万円っていうし!」
『おばさんに頼めばいいじゃないか』
「夏彦は正論しか言わないなぁ!」
電話中にチャイムが鳴った。特殊清掃の人が部屋に入る。マスクをしてつなぎを覆うビニールの服、ぼそっと「これはひどいなぁ」と言った誰かの声が聞こえたのか、電話向こうでも「ひどいのか」と言った。
おせおせ。今なら陥落できる。
「頼むよ! 本当に酷いんだ、見せてやりたいぐらい!」
『…………』
「なっちゃん」
『うるさいな。三万円でいいんだろ』
「なっちゃん……」
落涙しそうになった。異常な事態が数日続いたからちょっと心細くなっていたのかもしれない。俺が鼻を啜る音に電話の向こうで嫌な顔をしているのが目に浮かぶ。への字に曲げた唇で、眼鏡をかちゃりといじる。長電話を好かない年近い甥は「三万円だけだからな」と言って電話を切ってしまった。本当はもう少しだけ通話したいと思った。あのつんけんした冷たい声が俺の心に沁み渡る時が来るなんて。
涙を袖でぬぐった俺の頭に手が乗った。くしゃくしゃと乱された。それはユウマの所為だった。
「坊ちゃんが無いている時、父はこうしていました」
彼なりの慰めだと知ると、また俺の涙腺が緩んだ。
帰る清掃のおっちゃんとお姉さんにまで慰められて、それはなんだか気恥ずかしくなった。太陽が落ちて、どうして鳥が窓にぶつかってきたのか、その理由について考えていなかった事を思い出す。おっちゃんとお姉さんが出ていくと、ユウマは俺に「人に害成す、なんでしょうね」と言うのだった。
「俺の所為でぶつかったって言うのか?」
「はい。僕はそう思います」
「……まさか」
そのまさかは「あり得ないだろう」のまさか。だった。俺は未だ自分が人に害成す……ほにゃららを引き寄せるなんてこと信じていない。あの動かない雲を見たのは偶然だし、生きた本だって、ただの本かもしれないじゃないか。
胡坐をかいていた体を後ろに倒し、起き上がりこぼしの様になった俺はそのままベランダを見た。窓にぶつかった鳥と、血の水溜り。今はこんな色だったんだってぐらいにきれいになったベランダ。俺は起き上がりこぼしのように戻ることはできなかったが、体制を整えると立ち上がり、財布と携帯を持った。行くぞの一言に彼も立つ。玄関を開け、共に外に出る。夜の風は冷たかった。
俺の部屋が見える。電線は蜘蛛の巣のようにあって繋がっている。鳥がぶつかってきた方は車一台がぎりぎり通れるぐらいの細い路地だ。ここは昔、貧乏なやつらが暮らしている地区だった。
今の俺もじゃないか。嫌なことを思い出した。指先がトントンと動く。煙草が吸いたいって自分の合図だ。イライラした時に起こる自分のクセだ。こんな所で電線を見上げていたって何も起こるはずなんてない。ただ寒い風に当たっているだけだ。
俺は煙草を吸いたくなって自販機を探した。最近は煙草の自販機は減っている。せっかくタスポもとったのに、結局コンビニで買っている。
家と反対方向を向いて上を見た。向こう側が切り取られたような四角い枠を見た。
「なんだろう。アレ」
彼は俺と同じ方を見た。四角く切り取られた枠に目を向ける。その中を帰りそびれたカラスが通った。向こう側に消える。あの向こうにカラスは行ったのだろうか。
俺の視力では闇に消えるカラスが映らない。ユウマは俺の手を引っ張って木製の四角い枠がどこにあるのか探しているようだ。
枠は俺の家から一本通路を挟んで、薬局を左に曲がった通りにあった。今問題になりつつある放置物件、ちょっとした衝撃が起これば崩れそうな建物の一番上に置かれているのか、設置されているのかまではわからない。改札を通って来ただろう女の人が俺たちの後ろを通り過ぎた。ユウマは俺の耳に顔を寄せると、ちょっと、昇ります。と。
昇る? ユウマの体は影に消えた。いや、肌の色が影に近づいたのだ。彼は立ち入り禁止を意味する黄色と黒の縄を持ち上げて通り、屋根の上まで登ろうとしている。黒い影の塊が動いている。目を逸らしたら見失ってしまうだろう。
「危ないわよねぇ」
懸命にユウマの姿を眺めていた俺に婆さんが話しかけてきた。彼女は頬に手をあてて、「崩れそうで怖いのよ」と不安を口にする。「そうですね」と答える俺は彼女がユウマの姿に気付くのではないかと思い、意識を俺に向けなければならないと使命を抱いた。僕も危ないなぁと思ったんです。ほら、あそこ、屋根から意識を逸らすために建物の根っこを指さす。草がぼうぼうに生えてわかりにくいかもしれませんが、皹が入ってませんか?
俺の適当なやりとりに彼女は不快そうに眉を寄せた。あら、本当? いろいろ連絡とってるんだけどねぇ。
ミシミシと音がした。天井に据え付けられていた木枠が落ちた。傾いた木枠から、マジックのようにカラスが飛び出した。木枠が落ちると混凝土の壁が崩れ落ちる。俺たちの足元から土埃が上がった。小石が靴に当たる。婆さんは「やだ!」と大きな声を上げ、「だから言ったのに!」と憤慨している。
俺は黒い影を完全に見失っていた。崩れ落ちた建物の周辺を見まわして影を探す。最悪を想像して血の気が引く。集まり始めた野次馬の中から白い腕が伸びて俺の肩を叩いた。
完璧な指先が少しだけ、黒く汚れている。
彼は無機物を食べることはできるが、体の外から吸収するわけではないとその時知った。服と、髪の毛に絡んだ埃と石の欠片が頭を叩くとパラパラ落ちて来るのだ。彼は風呂に入る必要があった。
「風呂は――、入ってたのか?」
「銭湯があります」
この体躯で銭湯へ行っていたのか。銭湯の扉を開けて入って来る彼を思って、映画テルマエロマエを思い出した。オッサンの中に場違いなイケメン一人。クツクツ笑う俺に構わず、彼は水を流し出す。扉を閉めて無い! 壁が湿気る!
慌てて扉を閉めると、水の流れる音を背に座り込んだ。やっぱり俺は変な物を引き寄せているのだろうか? 答えは出ないが、閉めた扉が開いて、それにもたれていた俺は背中から浴室に入室することになる。シャワーから流れていた水を頭から被ることになり、読んで字のごとく頭を冷やすことになった。
「石鹸はどちらですか?」
銭湯の後はオッサンからコーヒー牛乳をおごって貰ったという話を楽しそうにする彼に家は牛乳しかありませんよ。と説明する俺はまるで母親のようだ。実際、俺も子供の頃言った記憶がある。コーヒー牛乳が飲みたいのと言う我儘を。
なぜしゅんとするイケメンのためにコーヒーを淹れてあげているのか……、ああ、俺は「ええかっこしい」なんだ。相手に悪い印象を与えたくない。だから叶えることができる理想は叶えてやりたいと思う。コーヒーを半分ずつ、砂糖を大目に溶かして、牛乳を半分ずつ。有名なコーヒー牛乳には遠く及ばないけれど、ありがとうございます。と受け取った彼は満足するはずだ。事実、喜びの表情が出来上がった。
「聞いてもいいか?」
こう言った時はイイエと言われても質問するものだ。
「あの、枠みたいなのは、なんだったんだ?」
「枠だと思います」
「……うん」
そんなことは俺でも判る。だって見た時に木の枠があったのだから。そういう回答ではない。あの木の枠は“何か”ってことを聞いているつもりだった。
「トンネルは枠ですか?」
「は? え、ああ、うーん」
「トンネルは、一方から見て枠ですね?」
俺はその説明に唸ってしまった。そうして甥を思い出す。彼は一聞いて十以上答えるだろう。夏彦ならこの言葉に何か気付くのだろうか。
理解していない俺に彼は続ける。
「トンネルは、向こう側があってはじめてトンネルです」
「うん」
コーヒー牛乳が入って居たマグカップの底を俺に見せる。広がった飲み口に彼は指を入れた。
「向こう側が無くなったトンネルは、穴のある枠です」
ああ、うん。わかったような気がする。彼は、あの枠がトンネルの出口、入口だと言いたいのだ。それを破壊したことで通り抜けできなくしたんだ。
「……あのさぁ」
「はい」
「俺が引っ越した先に『それ』があったのは偶然だと思うか?」
「いいえ」
彼の即答に俺は納得するしかなかった。俺が枠を見つけたのか、俺は枠に見つけられたのか。
もうやめた。こんな難しい問題を考えることは向いていない。そういうのはもっと適役が居るのだ。俺はどちらかと言えば、木枠に嵌りたくても嵌ることのできないはみ出し者。
そう、俺はそれが良く似合う。
2015/05/02
↑戻る