俺元彼


 初めて見るタイプだった。スーツをバッチリ着こみ、髪を整え、隙の無い感じ。だが、戸惑っているのは直ぐに解った。店をグルリと見回すとマスターにジントニックを注文する無難な感じ。
「初めて?」
 入口を背にして右側は常連が居る事が多い。トイレが近いからだが。今日は人が少なく、デート目的でやって来たヤツの他に人はいなかった。話しかけられたスーツの男は少し強張った顔で酒を持ち俺に近づく。
 彼に聞いた。
「ここに来るのは初めて?」
「ああ、わからないことばかりで、戸惑ってるよ」
「そっか。最近気づいたとか?」
「まあ、……そうなるかな」
 そう質問したのはここが男向けのゲイバーだったからだ。やってくるカップルも、シングルも大概ゲイ。偶にゲイじゃないヤツも来ることはあるが、稀だ。
「女性と付き合いをしてたのだが……」
「うまくいかなかった?」
「ああ。勃たなかった」
「男では勃つの?」
「……」
 彼は黙り込んでしまった。酒で口を潤わせながら、暫く逡巡する。そうしてから「わからない」と言った。俺は酒についていたオリーブを齧ってから、「試す?」と彼を誘う。こういう場所に始めて来て誘われた奴の反応は二つ。嫌悪か興味か、目が泳いでいたが、彼は興味が勝ちそうだなと思った。
「おいでよ」
 片手を引いてトイレに向かう。マスターが横目で俺達を見た。常連がトイレ近くに陣取るのも何となく理解してもらえただろうか。「アイツとアイツがヤった」と下衆な話をその後するのだ。酒を飲みながら。
 緊張で体を強張らせるスーツの男にキスをした。当然だが酒の味がする。ベルトに手を掛け、ズボンと下着を下ろす。
「勃ってるじゃん。EDではないね。よかったね」
 期待に持ちあがった男の象徴は先端赤く色づいて、苦しそうで可哀想だった。意地悪で焦らせば、冷たい印象だった彼の顔が欲に歪む。終わるのは早そうだった。頭を数回動かして、喉奥まで飲み込む。腰が動き始めたら射精が近い。口を離せば、離された事に抗議する如くピクリと動くのが面白い。
 俺の顔を抑えようと、彼の手が動いた。耳を指が掠める。ビクリと大きく反応した俺に、耳が弱いと察する賢さは持っていた。指が耳を撫で、主導が握られる前に、また口に咥えて動きを再開する。今度は終わるまで離れない。
 浅い息と、呻く声が堪えられなくなって口の中に体液が飛ばされる、君が出したものだ、と見せつける為に口を開けて舌を出した。彼は俺の顔を見て、荒い息を繰り返していたが、何を勘違いしたのか顔を近づけてキスしてきた。自分の精液を飲もうとする人は珍しい。昔、「飲め」と命じるヤツはいたけど。
「気持ち良かった?」
「…………うん」
 素直で良かった。彼は遊んだら勘違いするタイプそうなのが厄介だった。
 ――此処に来るヤツは一回のセックスでお別れというアッサリした関係を求める事も多いから、気を付けなよ。と老婆心で言っておいた。
「君は」
 手を洗い、口を漱ぐ俺に言う。
「君は、一回で終わるのか」
「二回目したいの?」
「違う。回数の問題ではなくて……」
「いっぱいしたいって? いいよ。顔も、体もそれほど悪くないし」
 でも、今日はまたね。そう言った時の彼の顔は、お預け食らった犬みたいでカワイイとさえ思った。数日、焦らしたら爆発するんじゃないかな。連絡先の交換をすることすら忘れて、今日の余韻に浸って悶々としてくれるんだろう。
 我ながら可哀想な事をするが、それはまあ、よくあること。

「一回どう?」

 バーで飲んているとこう聞かれることは珍しい事ではない。耳元で囁かれて、しかも相手は悪い感じじゃなかったから誘いに乗った。マスターが俺達を横目で見る。トイレのドアを潜った瞬間、それまで優しくリードしてきた男は、性急に服を脱ぎ、壁に俺を押さえつけると入らないけど、押し付けて来る。無理矢理入れられると裂ける、「待って、待って」と哀願し、焦らして時間を稼いだ。急いで指を入れて、何とか広げる。自分本位であまり気持ちの良いセックスではない。でも、まぁ。
 荒い息が繰り返されて、腰の動きが鈍くなると男は一方的に射精して体がを俺から離す。ズボンを直し、出て行こうとする。男の方を振り返り、壁に背を預けた時に気が付いたが、“彼”がそこに居た。スーツ姿で、この間しゃぶってあげた、焦らされた男。
 彼は俺と男を呆然と眺めていた。男は身を正すと彼の横をすり抜けて出て行く。床に座る俺に近づき、手を差し伸べる彼の、性器がやや、屹立していると気付いた。
「また、勃ってるじゃん」
 可笑しくて笑う俺と対称的に、彼は目を見開いて暫く動かなかった。否定するのは違うし、肯定するのは倫理に反する。そんな感じ。
「君もする?」
 よくあることだよ。セックスしたかったからセックスしたんだ。怒られることがあるなら、トイレを汚したぐらいじゃない? でも、マスターは友達だし、許してくれるし、アイツもここでセックスしてるから。お互い様だよね。
 彼はズボンのベルトに手を掛け、スラックスと下着を一気に下ろした。理性が折れる音がするなら今だろう。俺は体を何とか持ち上げて、「入れるならここだよ」と汚された穴を両手で広げた。床のタイルにポツと水音が滴る。体液とローションが混ざった液だった。
 先まで俺を犯していた男より、彼の方が大きい。壁に背をつけ、片足を持ち上げる少しきつい体勢だったが、驚くことに彼は辛さを感じていないようだった。体重を支えて、同時に腰を動かさねばならないこの体位は厳しく、途中で体位を変える人は多い。
 だが、彼は重さなんて忘れたみたいだった。一回全て入ってしまうと、汗と汚れがスーツに弾けるのも気にせず、俺の体に性器を打ち込む。床の上に落ちるパタパタという水音が激しくなった。彼は片足を上げて不安定な姿勢の俺に口付けようと体を前に動かそうとして、ようやく、この姿勢がキツイ事に気が付いたようだった。
 一度彼は、俺の体から離れ、壁に手を付けさせると後ろから再度挿入した。今度は肉と肉がぶつかる音が響く。耳を噛まれて大きな声を上げてしまった。
「よっぽど感じるんだな」
 いい事を知った。彼は今日初めて笑った。律動を繰り返す。その内、立っていられなくなって崩れ落ちそうな俺を支え、角度を変えて、偶に耳を食まれながら、奥まで突く。さっきの男より、よっぽど気持ち良かった。少しだけ反省した。

 濃いダークカラーのスーツに残念ながら汚れが目立つ。如何にもって感じだ。ハンカチを濡らして落とせるだけは落としていたが、今度は水濡れの染みが目立っていた。可笑しくて笑う。そういう俺の服も汚れているのだが。
 トイレから出て行こうとする俺を彼は引き留めた。
「いつも、こういうことを?」
「セックスのこと?」
「そうだ」
「まあ、イイ相手だったら」
「……俺だけにしてくれないか? こういうことをするのは。その、
苦しそうだったから……」
「身勝手だったよね」
「ごめん」
「君じゃなくて、さっきの」
「変わらない気がしている」
「ううん、気持ちよかったよ。また、したいくらい」
 笑いはしなかったが嬉しそうではあった。出て行く前に身体を抱きしめられて、「本当に考えて欲しい」と耳元で囁かれる。トイレの扉がノックされた。長居しすぎだと責められている。考える暇はなさそうだ。
「今から部屋に行っていい?」
「今から?」
「俺、セックス好きだから。さっきのお願いには答えられないと思う。でも、毎日でもお願い叶えてくれるなら、君だけのモノになってもいいかな」
 無粋なノックがまた響いた。答えの代わりに彼は僕の腕を掴んだまま、トイレから出て行く。憮然とした表情のマスターに「ゴメンね」変わりのウインクをした。

 彼に連れて来られた部屋は一つ区画を挟むとビジネス街に繋がる、新しいマンションの三階だった。スマートロックシステムの新しい部屋は雑誌に出てきそうなソファーに観葉植物、間接照明のインテリア雑誌によくある部屋。
「汚れてないね」
「寝に帰るだけだからな」
「じゃあ、たくさん汚すね」
 冗談で言ったら、彼は笑った。身体を引き寄せ、キスを繰り返す。強い抱擁に服同士が擦れて、乱れた。驚いた事に、軽くひざ裏から持ち上げられるとソファーの上に投げられた。彼は服を脱ぐ。初めて何も纏っていない体を見た。
 服からでも引き締まっていたのは判る。キレイなシックスパック、興奮で少し汗に濡れた体は、部屋の照明を反射して光る。
「すごく好き」
 様々な意味に捕えられる言葉だろう。彼もどう捕えたのだろう。何も身に着けていない彼は、今度は俺の服を脱がしにかかる。じっくりこの肉体を堪能しながらセックスができるなんて、嬉しくて興奮しちゃって大変だった。
 
 彼は“ほぼ”俺の願いを叶えてくれた。仕事に疲れて帰って来たとしても、必ず俺の近くに来て、欲求不満だなって気付けば身を預けてくれるし、望む通りにしてくれる。ただ、残酷な事に、年月が経つと、仕事の上で重要なポジションを任されるようになって、部下も出来、家を開けることも増えてきた。
 最初は部屋から彼に「寂しい」と言いながら自分を慰めるだけでも良かったのだけれど、俺は根っから挿れられるのが好きなんだなと思った。彼の居ないある日にバーに戻った。懐かしい常連たちに迎え入れられながら「お前はそういう処がいけない」と、自分の浮わついた性格を怒られ、それでもそこに居たシングルをひっ捕まえてヤって。
 帰って来た彼にお節介な誰かが「浮気してるよ」って連絡していて、帰って来た彼に怒られながらセックスするのが、いつしか恒例行事のようになってきた。
「毎日でもセックスしたいって、付き合う時にちゃんと言った」
「解ってる……」
「24時間365日でもいい」
「解ってる。君は本当に色情狂だって」
「頭がぐちゃぐちゃになって、このまま一緒に溶けたい」
「知ってるよ。君をずっと連れて歩けたら、幸せだって」
 ガチガチに硬くなった性器が奥を突く。仰け反らせた首に彼が噛みついて本当に食べられそうだった。このまま本当に溶けて、一緒になって永遠に気持ちイイままで繋がって居られたらいいのに。と我儘を押し付ける。
「約束してくれ。絶対、俺の処に帰って来るのなら、他の男とヤってもいい」
「約束?」
「そう、絶対、俺の処に帰って来るのなら。どんな形であっても。構わない。誰とセックスしようとも、咎めない」
「ホントに?」
「…………」
「黙ってるじゃん」
 気分じゃなくなって突き放した。途端に悲しそうに顔を歪める。君をちゃんと理解してなかった。悪かった。だが俺の気持ちも理解してくれ。謝罪の定型文と哀願の言葉。イニシアチブを握れた事に満足して、行為に戻る。
 
 「今日は、マッサージしてあげるね」
 俺だって彼を気遣わない訳じゃない。ベッドの上に服を着ない彼を寝かせ、マッサージ用のオイルを垂らして体を撫でる。キモチよさそうに目を細めて、身を委ねる。腕、肩、体とほぐしていく。
「ほぐす為なのにね」
「君は何をしてもこうだ」
 そうは言うけれど、知っていた癖に。目が笑っている。痛々しく張り詰めた性器に触れ、彼の体と足が震えては離すを繰り返す。触れようとしたら止める。歯を食いしばって、眉根を寄せ、苦しそうな顔を見る。太腿の内側から腹にかけて撫でるを繰り返す。指先で腹の形を撫でた。美しい肉体。俺に向く身体。あまりに堪能するから、気がついた時、指の間が白い液で濡れていた。

 快楽で繋がった関係は何れ崩壊する時が来るのかもしれない。部下を持ち、責任を持つ彼は、俺を置いて、単身で行かなければならない時が来た。ソファーに並んで座りながら、俺の左手をとって、甲に口付け願う。
「待ってて」
 と。
 うん。と言いながら瞳はテレビを見ていた。約束を守ることは出来ないだろうと思っていた。俺は多くの人に怒られるダメ人間だ。すぐ疼く。果たして何日持つか、
 愛していると囁く言葉が虚空に響いた。耳に触れられて彼を見た。怯えていた。何に? 置いていくことだろうか。
 彼が出てから、すぐバーに向かった。五分前には「良い子でいるんだ」と言われて舌まで絡めたのに、すぐ破る。酒を飲む見知った顔にやあ、と声かける。俺を見て、誰かが彼に連絡するだろう。戻って来ることを少し期待した。
 でも、多分それはない。誰かを探す。彼から暫く連絡は無かった。それがお仕置きのつもりなら、つまらない男。少し飽きていた。

2020/07/08

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