はじめに


 異世界転生モノという作品ジャンルが、インターネット上で流行していると山の手市正義の者協会支部長から聞いた時は度肝を抜かれました。日常的に異世界に向かい仕事をしている私から言わせてもらえば、「異世界に向かう」というだけで中々に疲れる仕事の一部だからです。
 先ず、向かう異世界に対する知識がなければいけません。外国に行って、その国の言葉を話すことができなければコミュニケートがとれず、捕縛されて牢屋に入れられる、そのようなトラブルが多々あります。その地域の文化、身の振り方、どんな生物がいて、何が食事に出されるのか……。
 事前のリサーチが無ければ、家畜として人間を飼育している地域に転送し、人間が食事として出されてしまい、それを口にする可能性があり得ます。
 幸いにして、私は未だその経験はありませんが、カニバリズムの禁忌に触れてしまった同僚がショックを受け、仕事を退くことはよくあります。よくあるんです。
 人間を食べるなんて野蛮だ! と憤る声を聞くこともありますが、それは我々が「動物を食べるなんて野蛮だ!」と言っているようなもので、転送した世界には「人間を食べなければ生きていけない集団」が存在するのが現実なのです。
 地球は今の所、自然法則に従って生きています。自然法則から解放されれば様々な仕事が楽になりますが、浮かんでくる新たな問題に対する対処の方にリソースが奪われ、自然環境が失われるか、人類が滅亡してしまうでしょう。
 まあ、確実に正義の者協会含めた幾つかの秘密結社は生き残るでしょうが、その時起こるメンタルヘルスハザードの方が懸念されており、人類と呼ばれる集団が生きていた事実を忘却する魔術・医術・科学の採用は間違いなく起こるでしょう。

 転生に話を戻しましょう。厳密に言えば私は転生専門家ではなく、“転送”の専門家です。生まれ変わることは専門外になります。
 しかし、転送はまだしも、転生については話したがらない人が多いのです。
 協会内にも私の様な転送専門家は何名かおりますが、転生専門家は聞いたことがありません。体を変える事を転生と呼ぶのならば何人かは存在するのかもしれません。
 知人で、意識を他所に飛ばし、何かの器に入り活動する者が居りますが、そういう人の体は無防備で、協会で守られることになります。仕事を終えたら、また同じ体に戻って来るので、彼らのことは転生者と呼ばず、トリッパーと呼んでいます。
 トリッパーと転生者の大きな違いは「生まれ変わるか否か」です。意識が入った器が死亡しても、体に戻って来ることのできるトリッパーと違い、身体がコロッと変化し、それまでの全てを捨て、生きる。
 果たして、転生者は生き延びる事ができるのか、疑問に思いませんか?

 街中で「私はルイ16世と共に処刑されたマリー・アントワネットだ!」と叫んでいたとしても、それこそ最初に話した、捕縛に繋がり、身分証明され、身分が保証されない場合は行方不明者として確保されることになるのです。
 生き残ることができる聡明な者は、そこで空気を読みます。
 記憶が無い、何をしていたのかわからない、記憶が混濁していたかもしれない。転生先の言葉を理解出来る者は非常に幸運です。
 しかし、あまりにも美しい言葉を話し過ぎても通じないのです。平安時代の言葉とインターネットで使われるような言葉に大きな乖離があるように。
 文字にも問題が出てきます。市民はフランス語を話していたとしても宮廷ではドイツ語、ラテン語、英語など使い分けられることがあるようなものです。
 書き言葉はこの仕事を始めてから千年経た私でも未だ苦労する問題です。パピルスを使うような世界で、ボールペンを取り出してしまいそうになった時は当時の上司に酷く怒られました。理由は今なら身をもって解るのですが、転送先の未来文明が急速に進歩すると、資源を狩りつくし、その土地の衰退を早めるのです。
 転生したと思しき人々が、元の時代の事を迂闊に話すことができないのはこの辺りにも理由があります。気軽に自分の世界について報告してしまった人は、その世界の崩壊に巻き込まれて死ぬか、未来技術を求めた指導者が労働者を酷使した結果の反乱に巻き込まれるか、甘言で指導者を惑わす詐欺師として処罰されるか、それにより死した人がいるのではないでしょうか。
 
 ただ一人、記憶の中で「この人は転生してきたのではないか」と思わせてくれる人がいました。先ず彼の話をしましょう。

2019/10/16

目次 ある授業 次>>



↑戻る