先生と私

1.先生と私~展覧会の事件と顛末~

 私が先生との関係について記そうと思ったのは、私から見た先生が非常に面白い人であるという一種の擁護でもあり、世間の皆様を騒がせた事件記事が週刊誌を通じて出回った瞬間、“何が私の回りで起きたのか”ということを私自身が整理し、皆さまに伝えておきたいと思ったが故です。

 事件について話をする前に、私と先生について少し話さなければなりません。

 大学卒業後、二十三になった頃、私は就職活動に失敗し、若さという時間をただ部屋の中で食いつぶす日々を送っていました。私が落ち込んで何もできなかった事について一番気をもんでくれたのは、私にとても良く似ている父で、父の紹介で私は先生と出会うことになります。
 父は帝都美大を卒業した優秀な者の一人ですが、残念な事に大学生活を送る間に自身の才能に線を引き、恋人と結婚し、私が生まれ、画業という不安定な道よりも美術教師という一定の収入が見込める職を選びました。一方先生は、大学在学中からその才能を顕わにし、既に何件も個展を開き、若き才能として絵が飛ぶように売れ、不安定と言われる画業に従事する者の中でも安定した収入を得るようになります。
 同門を潜った同志と言えども、先生は華やかな、父は堅実な道へと進み、暫くその道は別れたままでしたが、不思議と先生と父、様々な意味で相性が良かったようで、久方ぶりに突然した父の連絡を先生が拒まなかったことが私の職、“画家:華山魁の助手”という仕事に繋がります。
 その頃、先生は妻の紅子さんと離婚され、日常生活に支障を来す程困っていたというので、私の父が先生に「コイツを雇ってくれないか」と頭を下げに行ったのは先生にとっても渡りに船と言わんばかりの幸運であったと言うのが、私にとって有利に働きました。
 先生は家事と呼べる日常こなさなければならない雑務が非常に苦手で、私が先生のアトリエを訪れたとき、床には使い終わった絵具のカラや、蓋、紙ゴミが散乱し、一歩足を踏み出せば“何かを踏む“という非常に厳しい状態で、この部屋から『路傍の石(2012年)』が生まれたかと思えば、誰もが驚くでしょう。
 私は仕事の初日、先ず掃除をすることから始めました。使い終わった画材や紙を袋に詰めるだけなのですが、袋は四十五リットルで三枚に及びました。離婚してから数日でコレだと言えば、先生が如何に家事能力が無いか感じていただけるでしょうか。今までは奥様が作られた食事を腹が減った時に喰えばよかったのですが、その妻が出て行ったのですから、金があるのに食うに困ることになります。私は料理上手と言う訳ではありませんが、一人暮らしの経験はありますから、生きる為に料理することはまあありました。
 私が作ったそれほど旨くない野菜炒めであったとしても先生は喜んで食し、また仕事に戻るので、私はこの時先生を「とても不思議な人」と思った事を覚えています。

 華山魁と言う人の名を聞いたことが無いという方が現代では難しいでしょう。小学、中学の美術の教科書に必ず名前と作品があり、教育番組で取り上げられることがある程の作家です。かくいう私も先生の作品を教科書で見、学び、父から「すごい人だ」と聞かされて育ちましたので、その人が扉一枚を隔てた場所でイス、若しくはスツールに座り作品を製作しているのは夢のような話であります。
 残念な事に私は父の持つ絵才を引き継ぐことはありませんでしたが、先生の作品の素晴らしさは理解しているつもりでしたから、先生と仲良くしたい、と申しましょうか、上司・雇い主と円滑に仕事を進めたいと思うのは通常なことだと思います。私もそう思いました。先生が何を好きで、先生が何を思い、先生が要求するアレコレを素早く用意するため、ネットワークを張り巡らせる。
 これには何度も失敗した「就職活動を二度としたくない」という恐怖もありました。「就職活動をしなくない為に就職する」という、目的と手段が入れ替わった状態に私も陥っていたのです。

 この私による献身が先生における“愛情行為”と受け取られてしまったというのが非常に大きな不覚でした。先生にとってそのような仕事をこなすのは今まで奥様だった訳ですから、そう思うのも当然といえば当然なのかもしれません。
 そして私がもう一つ理解をしていなかったのが、“先生と私の父の奇妙な関係“でした。
 先生が結婚したのは大学院在学中との話です。では、それまで先生の身の回りの世話をしていたのが誰なのか、という話になります。大学進学前は家族がそれをすれば良いのですが、進学後、出身地を離れた一人暮らしの期間、当たり前ですが先生は家事をしなければならない訳です。ここで先生の補佐をしたのが誰だったのか、それが父だったそうです。
 少し私について話をさせてほしいのですが、私は誰もが認める父に瓜二つの男です。父は日本人にしては背が高いのですが、切れ長細目が特徴的な男で、また私もそれを遺伝的に受け継いでいます。よく「竹のような男」と言われてきました。細長い見た目をしているのです。
 そんな大学時代の不安定な時期を支えた友垣、いえ、先生は父を好いていたというのですから、謂わば“昔の男“です。そんな思い出の中にある代物のクローンが目の前に現れ、離婚後の生活を支える仕事をする。私は少々、先生に対して過剰な献身をしてしまったのではないかと今も思います。先生は次第にアシスタントというよりも、生活上のパートナーとして私を見るようになりました。私は実家から先生の住まいに居を移すよう命じられ、身の回りの世話を積極的に行うようになります。
 当初、私は先生の考えて居る事がよくわからなかったのですが、時間を共にして理解するようになりました。先生は一度慣れるとパーソナルなスペースが体を密着させておくほどに近く、四六時中私の居場所を把握するようになります。私も助手として先生の居所を把握し、その要求に答えることが仕事ではあるのですが、眠っている間にその身を長く抱き続ける等の要求が仕事ではないと、それを把握するのに時間が掛かったのです。
 そして、また私もそれを「まあいいか」で済ませてしまう大らかすぎるところがあるが故に、私と先生の関係は雇用主と従業員なのか、生活上のパートナーなのかよくわからなくなったことが“事件”に繋がっていくのだと思います。

 2019年8月、先生の下で働くようになってから七年経ちました。先月までの涼しさが嘘のように熱波に満ちていたこの日、私が住む先生の家に来客があったのです。それは先生と前妻紅子さんとの一人娘でミチルさんと言います。
 つい先日、初めての個展が成功し、その名を画壇の中でも聞くことがあるように思います。その初個展についての相談を先生ではなく“私”にしに来たのです。
 ミチルさんの感情は深く理解できました。父に相談してしまうと、偉大な画家の娘というフィルターを通して見られてしまう。そうではなく、絵を評価して欲しい。彼女は先生から受け取っている十分な養育費と慰謝料の一部を貯金し、都内一等地にあるギャラリーを借りるべく奮闘していました。
 都内のギャラリー、それも一等地にある新しい場所を数週間借りるとなれば、一回の個展で百万円、人件費、最近の流行に則って“映え”を狙うとするならばもっとかかる計算になります。それでも彼女がそれをしたいと思ったのは、彼女が先生と同じ画壇に進む決意を固め、先生をライバルと視ている一種の覚悟があった事は私にも伝わりました。
 私は機密裏に彼女と連絡を取り合い、先生に気付かれないように仕事をしていました。私が知る限り彼女にとって有益な画商を紹介し、広告宣伝の為の代理業者を紹介し、絵の扱いについて理解ある配送業者、梱包についてのアドバイス、客を誘導するための絵画の動線と、先生が個展を開催する度に学び、身に着けたノウハウを彼女に伝えたのです。そしてそれは個展の成功に繋がったと私は思います。これからの未来ある芸術家一人への投資は私の人生の中でも大きな誉の一つとなるでしょう。そう思っていました。
 ただ、結果はご存知の通り、この個展が皆様の心を騒がせることになってしまった事実は私の大きな汚点となり死後も話を残すでしょう。面白可笑しく、真実不実交えて伝わるよりも、私の視点から見た私なりの釈明を残すべくこの文は記しているのですから、私が思う限りの事を書き残すべきだと思っています。

 私が彼女の個展に協力することを決断してから、アトリエを密やかに離れることが増えました。これが先生の不審を招きます。個展を開催したギャラリー明道を初めて内見した日の事です。私は家に到着するのが遅れ、先生が家の中を探し回り、先生が知る限りの人に連絡を取り続けたという事件がありました。ギャラリー明道は美術作品鑑賞の為、携帯電話の電波に干渉を行っている特殊な場所で、帰宅の遅い私の電話に連絡をとった先生の電話が通じず、携帯電話にパソコンが使えない先生は他の連絡手段を持たず、各方面に迷惑を掛けたのです。
 この中に、私がミチルさんに紹介した画商・玉手澄郎くんの師である鳳丙太郎先生が居り、ミチルさんの個展についての話が先生に伝わったと聞いています。
 私が遅れて家に帰って来た時、先生は瞳を潤ませ、今までに無かった私の反抗(と先生は受け取ったのでしょう)を責めるかの如く私の体に抱き付きました。先生の動揺を治めるために私はその日の残り時間を過ごし、翌日から外に出る仕事をする場合、先生が付いてくるという仕様になり、先生自身の作品制作に支障をきたしました。
 これは好ましいことではありませんでした。当たり前ですが、私の所為で先生の生活に支障をきたす等とそれがまかり通ってしまっては、先生の仕事に関わる者からクレームが届き、私は先生の前から去らなければならなくなります。そうなれば先生はまた一からアシスタントを探さなければならず、より作品制作に障ることが目に見えているのです。
 その日から作戦を変えました。私は家に居ながらビデオ通話等でやりとりし、展示作品の順番や客の動線、ウェルカムドリンクの用意などを指示しました。翌日に公開を控えた夜になって初めてミチルさんの作品を間近で見ることができました。若々しいエネルギーに溢れた素晴らしい作品が並んでいました。私はこの作品展が成功することをここで確信しました。

 作品展開催当日、私は午前休を取りました。「どうしても見たい作品展がある」という部下を、今思えば七年も密な付き合いのある上司が「そう」の一言で了解するなんてことがあり得る筈はないと理解できるのですが、その時は初めてミチルさんが行う展覧会ということもあって浮かれていたのだと思います。
 作品展が行われているギャラリー明道は、作品展の噂を見聞きした人で溢れていました。作品撮影を許可したことも、スマートフォンを片手に撮影し、それをSNSに載せ、そこからまた人が集まる。という連鎖的な広告へとつながりました。作品を製作したミチルさんの努力は勿論のこと、玉手君を筆頭とした準備会の貢献もありました。
 ミチルさんは酒と作品展への興奮もありながら私に「どうですか?」と問います。素晴らしいと私は答え、人がいる展覧会を暫く巡っていたのです。作者であるミチルさんの周囲には自然と人の塊が出来、彼女には賛美の声が集まり始めていました。
 
 ……ここで、私は先生を“嵐”と呼ばなければなりません。私が展覧会を堪能していた時、ガラス扉の向こうから先生が近づいて来たのが見えたのです。
 先生は扉を開け、ギャラリー明道に入ると人の波を肩で掻き分け、ミチルさんの前に立ちました。当然、絵について理解のある者は現れた無礼者が華山魁であることに気づきます。ミチルさんは“華山”の名を使わず、ミチルだけで勝負をしていた為、先生の登場に驚いたことでしょう。
 先生は給仕が運ぶウェルカムドリンクを拾い上げ、「先ずお祝いを」と皮肉めいて述べ、展覧会を巡ったのです。華山魁の登場は展覧会の流れを大きく変えました。彼が何を言うのか、客は興味を持って後ろを歩くのです。先生は私を見つけると「言ってくれても良かったんじゃないのか」と憮然としながら言いました。
「一人でこれだけの規模のギャラリーを準備できたとは思えない」
「手伝って貰ったのよ」
「誰に」
「誰にって、玉手さんと……、アドバイザーとして日比野さんに」
「アドバイザーの日比野さん? 違うオレのアシスタントだ」
 ミチルさんはムッとした様でした。先生はこの穏やかな作品展を脅かす敵のようなものでしたから、私が先生のアシスタントであると告げられたことで、この展覧会の成功が「華山魁あってこそ」になってしまう事を嫌がったのです。
 この時、私はミチルさんのフォローに回りました。
「先生、内密にしていたことは謝ります。しかし、この展覧会の準備はほとんどミチルさんと玉手さん率いるチームが行ったものです」
「謙遜しなくてもいいんだぞ。オレの仕事を蔑ろにして出かけてたこともあったじゃねェか」
 先生はニコニコと笑いながら私に凭れかかりました。大変だったねと言わんばかりに。
 この発言から、周囲も華山魁がこの展覧会を望んでいなかったと察し始めます。展覧会の雰囲気が悪くなり、ミチルさんが悔しそうに顔を歪め、一度目を閉じ、そしてまた見開いたのです。
 私はこの瞬間を今でも思い出せます。ミチルさんはハッキリと私を見据え。
 「日比野さんに声かけたのは当然よ」と胸張って言ったのです。
「だって私、日比野さんとお付き合いしてるもの」
 自分自身を擁護しますが、私は彼女とお付き合いしていません。ただ、彼女が私を嫌ってはいないと思ってはいます。展覧会が開かれるまでに、恋心のようなものを私に抱くことはあるかもしれませんが、私がそれに気づくことが無いほどの鈍感人間であると否定しきれません。
 これに周囲が湧きました。サプライズプロポーズであるかのように受け取られたのです。後に、ミチルさんはこれを私に対するサプライズプロポーズであったと認めております。ただ、彼女は先生が私を好いている事を知らなかっただけです。
 先生は即座に「お前と日比野が付き合っている事実はない」と否定しました。そしてもう一つ付け加えました。
「コイツはオレと共に寝てるから、オマエと付き合っている筈は無い」
 先は湧いた周囲の声が困惑に変わりました。ざわざわとさざめく声の波に先ず私が居た堪れなくなって、次に玉手君が遠くで汗を拭う姿が見えました。
 ミチルさんが一番冷静でした。手に持っていたグラスの中に残ったドリンクを一気に飲み干すと宣言したのです。

「とォっとと死ねクソジジィ!」

 これが騒動の大体の顛末になります。

 ミチルさんの「死ねクソジジィ」発言の後、二人は小一時間に渡って親子喧嘩を繰り広げることになります。余りの騒ぎに警察が呼ばれ、展覧会の話は数か月にわたって噂となりました。ミチルさんが華山魁の娘であることが知れ渡り、私のことを「親子二人を誑かす悪辣極まりない男」のような書きかたをする雑誌もありますが、私はそれほど器用な男ではありません。
 展覧会の後について様々な憶測が飛んでおります。父(先生こと華山魁のこと)が娘(ミチルさんのこと)を権力で叩き潰したとか、刃傷沙汰になったとか、私が失踪したとか……。
 どれも誤りです。展覧会で展示されたミチルさんの作品『余暇(2018年)』と『筑(2019年)』が強く評価され、きっかけはどうあれども、ミチルさんは先生と関係なく名を売りつつあります。
 刃傷沙汰にはなっておりませんが、展覧会に乗り込みその場の雰囲気を荒らしたことについて、先生とミチルさんの間で話し合いがもたれている。これは事実です。その話し合いの中で、先生が「お前にオレの遺産は人的資源含めてやらん」という大人げない宣言をしたことも事実です。この人的資源は助手を務める私も含まれます。これについては抗議しました。
 私は失踪しておりません。失踪したとしても先生の家から電車で十五分程度の実家しか思いつく場所がありませんので失踪のしようもありません。私は総ての仕事を放り出して逃げ出す程、肝の据わった男ではありません。今も先生の家に住み、そこで仕事をこなしています。
 私とミチルさんについてなのですが、先生は前々から嫌な事を考えていたと呟いたことがあります。ミチルさんと会い話した回数は数度しかなかったのですが、先生はその数度の邂逅でミチルさんが私を見る目だとか、話す言葉だとか、仕草だとか思う部分があったとのことなのです。
 今度は、先生が悔しそうに顔を歪めたことを覚えています。先生は確かに金と権力と"力"はもっているのですが、代わりに若さと初々しさを失って、それを取り戻すことはできないのですから。娘と言えども、それ感じてしまったからには、またあのゴミばかりの冷たい部屋に戻る不安があったのではないでしょうか。

 ミチルさんとどうするのか良く聞かれます。私から言えることは、私は先生の下で働き給金を貰っている為、先生の前から離れる事は今のところ考えていないというのが正直なところです。本音を言えば、適切な次アシスタントが見つからないのです。過去、他のアシスタントを雇おうと提案し、募集をかけたのですが、先生が様々な理由をつけクビにします。遂にはアシスタント募集を諦めてしまいました。
 摂理を考えれば、先生の年齢は今年五十、私は三十で、ミチルさんが二十なので、明らかに私とミチルさんの方が長い付き合いになるのでしょう。この事実を私が指摘すると先生はその日から酒を控えるようになったので、長生きするつもりはあるようです。
 玉手君とは騒動の後、一度飲みに行きました。その時、玉手君が連載している美術ブログで私の話を載せたいから文書を書いてくれと頼まれたのです。
 それがこの話になります。あの時何があったのか、美術クラスタの皆様は大騒ぎであったと伺っておりますが、私は今も生き、本日も落ち着いてパンケーキを食べましたのでご安心ください。


2019/08/25

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