夏と涼み

 ぴぃんと張り詰めた緊張の糸、部屋に響く衣擦れの音、心臓の音が聞こえそうな、聞かれていそうな、そんな空間に二人は居る。顔立ちの地味な、眼鏡の青年が冷たいドリンクを握りこみ、真っ赤になった両手の指を、口元へもって息を吹きかける音さえ喧しく聞こえた。
 隣に居るのは憧れであり、憎い男だった。同年代で同じ日にオーディションを受けた。彼は受かり、俺は落ちる。眼鏡はそんなことを思い出す。
 受かった男は細身で背が高く、女性に好かれそうな甘いマスクをしていた。一見したら無頼漢、ワイルドとも謂える。音楽は男に受ける正当なロック。男女共に認められる格好の良さを持つ奴なんてのは、世の中探しても滅多に居ないものだ。
 彼が合格するのは必然。それ以外の言葉は無い。
 眼鏡の演奏も悪くなかったと周りは言う。たまたまその時の相手が悪かったのだと、慰めにもならない慰めの言葉が飛び交って、届かず消える。楽屋として準備された箱の中で荷物を片づけながら、最後にやって来たのがその日合格した彼だったから、憎たらしさ半分で声をかけた。
「おめでとう」
 敵を素直に祝う余裕があったと述べるより、日和見で、今後、先輩になる可能性のある彼に媚びを売っておきたいという気持ちが僅かにある。祝われた彼は今時の若者らしく、頭だけをカクリと下げてそれに答える。
 だから、動揺を誤魔化すために冷たいコーヒーに手を伸ばした。両手で握りこんだドリンク、真っ赤になった両の指、黙ったまま帰り支度をする彼の音。
 せめて楽屋からは最後に帰りたいと思った。この悔しい空間だけは彼の悦びに支配されてはならないと、その場を仕切る音を作る者として思う。
 彼はギターを持って先に出た。先ほどしたように頭だけをカクリと下げながら「じゃあ」と「ナット」、言葉を二つ告げた。最初の「じゃあ」は別れの言葉で「ナット」は眼鏡の愛称。自分の名を知られていたことに少しハッとした時には、楽屋が閉じる音がする。そんなところもなんだか負けた。憎たらしいから名前を考えないようにしていたのに。名前すら涼やかで、スマートなスズミ。楽屋を支配する最後の音は、この楽屋に点いた蛍光灯の明かりをパチンと落としながら、ステージを支配したスズミを考える余韻。

 スズミも余韻を感じた。
 ステージ上で脳を焼く光の熱にフラフラになりながらステージを降りたある日の事、ぼんやりした視界に見える憎しみの棘持った眼の中、一人だけ光る眼鏡。
 彼だけは自分に賛辞の拍手を送っていた。
 周りは敵ばかりと思っていた中で、それだけは平等だと思えた。ナットという愛称だけは知っている。彼、そんなつもりはなかったのかもしれないが、自分は覚えている。あの日、あの時。
「スズミっていい名前、クールそうでいい」
 そう。と酒を飲みながら返事をした。盛り上がる奴らを背にグラスを傾け続ける。左隣からふわふわと自分を褒める酒の弱い眼鏡が居る。
「俺なんて「ナット」だぜ? ナット。ネジとめるアレ」
「鉄っぽくて、イイんじゃねぇ」
「そうかなぁ? 鉄っぽい? そうかな」
「呼びやすいし」
「そうかな」
「ああ」
「スマートな奴に、そう言われると嬉しい」
 言った通り、嬉しそうにすり寄って、破顔する。褒められて悪い気はしなかった。少し薄暗いバーの片隅で将来の事を話すなんて、なんて普通の青春だろう。煙草の煙がフィルターになって二人の間を漂う。バーの雰囲気が洒落ていた所為もあって、マフィア映画のワンシーンにも見える。
 ナットの眼鏡が光った気がした。
「スズミ、ねぇ、どうしたらオマエみたいになれる?」
「なれねぇよ。俺がお前になるぐらいあり得ないし、なる必要は無いし……」
「なんでぇ、なんでぇ、お前の事スキなのにサー」
 間。薄暗い店内では何でも蠱惑的に見える。目の前の地味な眼鏡でも。
 ナットは言葉を続けた。
「いや、お前の事、スキじゃないのかも、オマエは才能ありすぎる。才能ありすぎて、キライ、キライだけど、スキ。あー、オレ、何言ってる?」
「愛の告白」
「コクハク? そうか、スキデス」
 フン、と鼻で笑う程度には愉快な奴だと思った。無邪気に近づく無防備な奴を愛いたのは、自然と自分から離れていく奴らを眺めていたからとも謂えた。自惚れが許されるのであれば、俺は天才故、孤独だと憐憫している。
 酒、煙草の勢いと、室内に響く陽気な声の影に隠れて様々な会話をしたことをナットは忘れているかもしれない。二人で煙のフィルターを濃くしながら、そう思った事だけは事実として残るだろう。
 時間が過ぎると、煙草の煙が交わる空間は、「何してんの」って能天気な女の声で消えた。心の中で舌打つ。人懐っこく、ナットは女の方に寄っていく。離れる前に振り返って「ワスレテ!」と悪戯に言った。
 取り残されたスズミはまた孤独に還り、酒と煙草を飲みながら思考した。
 何とない会話が少し、心地よかった。そう思った。

 街を彩るネオンに照らされると、ナットは無機質なその色合いに冒されそうになる。煙草が恋しい。家まで我慢しなければと理性が働く。
 指先に当たったので、ポケットに入っていた携帯電話を取り出した。……取り出したところで、誰に電話を掛ければよいのだろう。
 ポコンと頭の中に涼し気な目元で歌うスズミの姿があった。ステージライトの光に照らされて光る汗、マイクに近づける唇。一度ステージ横をチラと見た事があった。男でも痺れる目線。
 ステージから目を逸らせなかった。勝てねえな。と思った。ギターを握りしめる自分の指が震えている事に気が付かなかった。それ程、意識が彼の歌に侵食されていた。マイクから唇が離れた後、ステージには立ちたくないと思ってしまった。
 俺だってステージを愛しているのに。情けなくて悔しくて目頭が熱くなる。
 自分が立つはずのステージは常にスズミに侵食されていく。
 才能の差を理由にはしたくないけれど、天才すぎて彼が嫌いだ。妬み続ける自分が嫌いだ。意識しすぎて身動きが取れなくなるこの状態が何より嫌いだ。
 胸ポケットに入っていた煙草に手を伸ばす。家まで我慢が出来なくて、地下鉄駅に通じる階段に座り一服。社会人として未熟な自分を嘲笑う疲れ切ったサラリーマンを横目に、ただただ悲嘆に暮れる。
 もうすこし、背が高かったら彼のようになれるか、顔が良かったら彼のようになれるか、歌が良かったら、声が良かったら、曲が良かったら、ファッションが良かったら、なれるのだろうか。
 灰が階段に落ちた。煙を吐きだす。煙草を階段に擦りつけたのは八つ当たりだった。
「帰らないの?」
 醜態を晒す自分を見られたことに怯え、体が跳ねた。声の方を見る。
 来た方角から降りて来る頭の中の完璧は、当たり前のように隣に腰掛け、顔を覗く。
「何でここに来た」
「……あそこの箱じゃ大概のヤツ、ここの駅使うだろ」
「ごもっとも」
「変」
 煙草を咥え、隣で笑った。ライターで火を点けると煙が昇る。一挙手一投足、どれも画になる。気になるのは嫉妬しているからだ。
「好きじゃないんだよ」
 ナットは、自分の口から吐き出された言葉が最低なものだと解っていた。解っているが、激情から溢れた言葉は堰を切って止まらない。
「何が」
「オマエ」
「俺、……俺?」
 驚いて見開かれた瞳に悲しみが見えた気がして苦しくなる。ナットは「そう」と言いながら顔を逸らした。
「何で。わかんねぇ」
 スズミは投げ捨てた煙草を靴でもみ消し、不機嫌を隠さずナットを見た。顔を逸らしたまま、ナットは吐き捨てる。
「わかってないところが、好きじゃない。好きだけど好きじゃない。オマエの隣に居ると、お前の才能に潰されそう」
 スズミを見るナットの目は赤く、目尻には涙が溜まっていた。
「オマエの事、好きだけど、好きじゃない。嫌いになりたくないから、――好きじゃないって言っとく」
 それはナットの本音だろうとスズミは思う。思って惑った。尊敬と嫌悪は向けられることはあったが好意は無かった。赤くなる目を持った顔は子供みたいに歪んで、声を上げながら泣き出したなら楽になれるだろう。だけど、理性がそれを拒んだ。人の通る階段で、ナットは膝を抱え込んで俯き、その中で孤独に泣く。
――隣に居るけど、居ない。孤独なゴースト。
 頭の中に浮かぶ言葉が邪魔をする。目の前の彼を慰める言葉がどんどん詩的になっていく。単純明快な言葉が良い。
――言葉? 言葉である必要があるか?
 髪の毛から覗く耳を見た。唇を近づけそれを噛む。聞け。
 驚いて顔を上げ、耳をおさえるナットの頭を、片手で掴んで乱暴に引き寄せる。見開いた目にスズミの顔が映ったが、刹那で陰に消えた。
 
 地下に入り込む風で冷えたコンクリートの壁に体を押し付け、小柄な方を服で隠せば簡易だが二人だけの空間は出来上がる。襟を立てて顔を隠し、近づいてキス。
 ロマンチックだろう?
 嫉妬とかそんなもんは恋愛で塗りつぶしてしまおう。スズミの空間にナットを入れてしまおう。ナットが持つ僅かな余裕の隙間に入り込んでしまおう。  

2017/12/13

目次 次>>



↑戻る