月見る月見
黒い空にぽつねんと雲一つ、それを追うように月がある。雲の方が流れていて月が有ることくらい俺だって知っている。それでも、今は月が雲を追っているのだ。俺はまた歩き出した。
音がもう一つ、後ろから聞こえて来る。俺は自分を月に例える程大きな人間ではない。月はもっと美しいものであるべきだ。
だとするならば、雲を追う月はなんなのか、それは俺の空想でしかないが、雲は俺なのだ。いずれ、風に流され消える。しかし月はあり続ける凛々と。
「月見さん?」
俺は月ではないが「月見」ではある。はぁ、と間抜けな声を出し、チェーン越しの扉から覗く男を見た。スーツ姿で目の細いオッサンだった。彼は「警察です」と言って、手帳を取り出した。バッジと身分証明書のついた手帳、本物か偽物かなんて俺には分からないが、おそらく本物なのだろう。
俺が何の音も発さないのを驚いているからだととったらしい刑事は、
「とにかく話を聞きたいだけですから」
「服を着るまで待ちますから」
と早口で言う。拒否させる気はなさそうだ。
俺は外に出ることができる程度の身だしなみを整えると外に出た。俺が現れたことでほっとする刑事たちと共にパトカーの後部座席に乗せられる。パトランプのサイレンが辺りに響く。窓の外を眺め、漸く近所の目があることに気付いた。
警察署の取調室は思った以上に明るかった。
窓に格子が嵌め込まれている他は、鏡のある普通の部屋だ。この鏡はマジックミラーで、後ろに誰かいるのだろうかとぼんやり考えた。寝ぐせに触れると、扉が開いて俺を連れてきた刑事が三人現れた。
「いや、どうも、へへ」
好々爺と言った調子のオッサンは小川と名乗った。小川は細い眼で俺を見ながら俺の向かいに座りファイルを広げた。そこには女性の写真が入っている。
「この方、ご存知ですよね?」
「ええ」
バイト先のコンビニに偶に来るお客の一人だった。俺は素直にそう話をした。小川はメモを取りながら、質問する。
「彼女と話したことは?」
「おでんいかがですか? くらいならあるかもしれません」
「そうですかぁ……、昨日の八時から九時、何されてました?」
アリバイの質問だろう。
「ええと、バイト先のコンビニを出て、美浜公園の隣で月を見上げて、……家まで帰ってました」
「証明できそうな人とかいませんかね? 通り過ぎた人とか」
「ああ、居ます」
「居る?!」
小川の隣に控えていた男が声を上げ、身を乗り出す。
「俺のストーカーに聞いてみてください」
そして刑事に困惑が広がった。
一か月ほど前、コンビニから家までの帰り道。誰かにつけられている気がしたのだ。俺が歩けば音も歩き、俺が走れば音も走る。不気味だが、何事も無い。何より俺は特別というわけではなく、どちらかと言えば頼りのない情けないタイプの男だ。甥に金を借りようとした男だぞ。俺に何があるっていうんだ。
一度、バイト先の女の子に頼み込んで、俺の後ろを突いてくるストーカーのストーキングをしてもらった。
そこには月があった。
「ものすごいイケメンだった!」
と興奮気味に言った彼女は絵が得意だったらしく、ストーカーの顔を描いてくれた。
そこには薄い髪色の作られたような美形が居た。まさか。そんな。
彼女は興奮気味に語ったが、俺はますます不気味に思っただけだ。
俺はその時の絵を移した写メを見せた。刑事たちは「少し待っててください」と断って部屋を出ていくと二、三時間後に戻ってきた。小川は「ええと」と言葉を濁しながら、
「確認が取れましたので、帰って戴いて結構です」
ご協力ありがとうございました。
深々と頭を下げた小川に俺は席を立ち、……ほんの少し沸いた興味から、
「ストーカーに会わせて貰えませんか?」
と頼み込んだ。
「……わかりました」
小川はぎょっとしたようだったが、どこかに電話を掛けると俺を先導して歩く。エレベーターが下りる最中、ストーカーについて考えた。どうして俺を追うのか。聞いて満足するのだろうか。イケメンのストーカーなんて聞いたことが無い。本当に彼なのだろうか。その時偶然、そこに居た人……だったりして。
扉が開いた時、そこには『彼』が居た。彼女が描いた絵の男だ。周りの警官よりもう一つ高い背、色の薄い肌、彼女が描いた絵より髪の色も薄かった。俺を見る瞳は緑色で、唇がほんのりと赤い。
本当に作られたみたいだ。
警官は困ったように俺たちを見ていた。俺は彼の前に立ち、頭を下げた。これは証言してくれたお礼で、次の言葉は今までの恨みだ。
「言いたいことがあるなら、直接言え」
俺は男の隣をすり抜けて警察署を出た。月見さん。と俺を追ってきたのは小川刑事だった。
彼は片手をあげ、紙を差し出す。小川良助。
「もし、何かありましたら」
小川の名刺だった。
その後は散々だった。
近所の人にはひそひそされ続け、刑事はバイト先にも行っていたらしく、
「明日から来なくていいよ」
と暇を出され、テレビでようやく写真を見せられた彼女が亡くなった事を知る。
あれは殺人事件の取り調べだったんだ。
知っている人が死ぬと、俺の人生にかかわりが薄くとも何か意識してしまう。気分が滅入って布団の中に引きこもっていた。こんな時に限って、軽口のメールを返してくれない甥っ子に電話を掛けてみようかと思ったが、彼の口から飛び出すであろう辛辣な言葉の数々を思い出してまた滅入りそうだった。
雑念が頭の中を駆け巡る。明日からどう生活すればいいんだろう。新しいバイトを探さなくてはと考え始めたころ、チャイムが鳴った。
俺はチャイムを無視した。どうせ宗教かセールスだろうと。夕方を越えてやって来る奴なんて碌なやつが居ない。
だが、チャイムはしつこく、繰り返し鳴らされる。俺より先に隣の人が出ていったらしい。ヒステリックな声が響き、すぐ静かになった。外では何か話し続けているらしい。俺はようやく立ち上がり、覗き窓から外を見た。
そこには『男』が居た。警察署であったあのストーカーだ。
隣の女性は彼に話しかけているようだったが、彼は聞いているのかいないのか、俺の部屋のドアを真っ直ぐみつめている。俺がカギを開けると、音に気付いたのか彼は身を正した。
「こんばんは」
チェーン越しに彼は挨拶をした。髪が揺れ、瞳に光が見えた。美しい緑の瞳が露わになる。
唇に笑みが宿った。
「直接、言いに来ました」
「やだー? 友達なのぉ?」
隣に住む化粧トドにはコイツが俺のストーカーであるなどと想像に及ばないらしい。俺は曖昧な笑みを浮かべた後。扉を閉め、チェーンを外し、彼の手を引っ張る。ふわり、と彼は玄関の中に入りこんだ。
後悔したが、もう遅い。
男はこの部屋に似合わなかった。長い脚で正座しベッドに座る俺を眺めている。
僅かな緊張を抑えるためにも煙草に火を点けた。煙草をまずやめろ。という甥の正論が思い出される。この煙草もいつまで吸えることやら、吸って、煙を吐き出し、咳払い。
それから俺は男に聞いた。
「何の用でしょう」
「はい。あなたは犯人ではないといいに来ました」
へっ、と笑ってしまう。
「そんなことはわかってる。それだけですか?」
「いいえ」
「いいえ?」
「はい。あなたは犯人を見ているのです」
煙草から灰が落ちた。それはカーペットに穴を作る。俺は慌てて枕元にあった水をぶっかけ消火し、ティッシュでふき取った。
「ゴミ箱ッ!」
俺の言葉で彼はようやくこの部屋にゴミ箱があると知ったようだった。ゆっくりとした所作でゴミ箱を拾うと俺の前に差し出した。水をふき取ったティッシュをその中に放り込み、一息つく。犯人を見た?
男はゴミ箱を元の位置に戻し、真っ直ぐ俺を見た。恥ずかしくなる程整っている。
「捕まえに行きましょう」
その言葉に今度は灰皿を落としそうになった。
部屋を出ると隣のトドも出てきた。また男に話しかけるのだろう。
「あらァ、どこに行くの?」
クネクネと動きながら、反応の薄いイケメンに話しかけている。
俺は一応「どうも」と言ったのだが、無視された。女を無視して夜風を切って歩く男はかっこよかった。今度は俺が男の後ろを歩く形になる。少し距離を離したところ、男は立ち止って俺を振り返った。月が見える。月と雲が。
男は立ち止り月を見た。俺が月を見上げた場所だ。雲もあった。同じ場所に。
同じ場所に雲が――。
どうして?
そういえば、何故同じ場所に雲があるのかわからなかった。
「雲だ」
「はい。雲です」
雲は風に流れず、同じ場所にあり続ける。浮いて、その場に留まっているようだ。
男は雲に手を伸ばす。
「女性がどうなったのか、聞きましたか?」
「いや……」
そういえば、俺は彼女が死んだと言う事しか知らない。刑事も特に言わなかった。
「彼女は体が溶けていたらしいです」
惨たらしい映像が頭のなかで展開された。溶けかける女性。しかし、俺の想像力ではスライムのようにドロドロになっている映像しか浮かんでこない。実際はもっと、凄惨であろうが。
男は手をひっこめた。
ひっこめた手は赤く爛れている。指先から手の甲、手の平まで。
「こんな感じで」
説明されて、俺の頭の中に浮かんでいた彼女の映像がなお鮮明になった。皮膚が溶けた女性。体内から赤い肉が見える死体。その想像に気絶しそうになった俺の体を爛れていない方の手で支える。
支えた勢いで俺の眼前に来た手、赤い肉が見えている。いや、見えていたのか?
男の手はまた白い皮膚に包まれようとしている。手の形になるように皮膚の色が赤い肉を包んでいく。俺はそれから目が逸らせない。コンピュータグラフィックじゃない。手が、再生してる?
俺は悲鳴を上げられなかった。その前に男が「少し耐えてください」と言ったのだ。男は俺の顔を顔で塞いだ。耳と鼻に細い管のようなものが入り込んだのを感じる。目の前は黒い。何か、俺を覆っている。
耳と鼻から管が抜かれた。そして口からも。俺の口の中に入りこんだ管は『舌』だった。男の口に収まる、長い舌。
街灯に照らされた男は耳が赤く爛れていたが、そこにもまた白い皮膚が伸びる。
「あんた――」
化け物。と言いかけたが俺は言葉を飲み込んだ。何が起きたのか、推測でしかないが、男の服は背中が溶けている。おそらく、俺は庇われたのだろう。それなら、お礼を言うべきではないのか? 助けられたのに、化け物呼ばわりか。
「助けてくれたのか?」
俺の問いかけには答えなかったが、
「携帯を持っていないのです」
とは言った。
俺は小川刑事に電話をした。ただ襲われたとだけ。小川刑事は数人でやってくると俺とストーカーが一緒に居ることに驚いたらしかった。彼の服が溶けていることを視認すると、その服を証拠として提出してほしいと言われ戸惑ったようだ。
「俺の部屋なら着れる物はあるだろう」
俺の提案に小川刑事は不安を感じたようだった。だが、彼には庇ってもらったから、と答えると部屋の前に刑事が待機するという条件で一時帰宅を認められた。
彼と俺では背がずいぶんと違う。彼が着れたのは冬物の上着ぐらいなものだったが、肌を隠すには役だった。俺と彼はその後、何枚かの調書を取られ、混乱のまま帰宅した。彼の服が溶けたことしか俺に言えることは無かった。
俺はこの家を引っ越すことに決めた。バイトも首になったし、近所のひそひそにもウンザリだ。甥に「引っ越しの金をくれ」と集ったところ、「死ね」と言われてまた落ち込んだ。
でも、引っ越した先の住所に蕎麦が送られてきた。この辺が、甥のツンデレたる所以だ。
あれから、彼には会っていない。彼が誰なのか、何者なのか、人なのかどうなのかわからないままだ。だが、未だ視線は感じている。
月を見上げたら、また彼に逢える気がする。
2015/04/12
↑戻る