デブと最低男
コンクリートの上に点々と零れている煙草の吸殻を眺めた。煙草じゃなければ空になったペットボトル。白っぽいビニールの袋。最近増え始めたマスク。靴の底を減らして気分転換にと向かう朝のコンビニで買った温かな飲み物がポケットの中に二つ。数日で少し痩せたのか、ズボンが落ちる。誰かに見られる前に両手で上げて、息を吐き出した。白い。踏切を一つ越え、数時間前に閉じたであろう居酒屋を横目に歩いた。水色の壁、白い塗装で塗られた金属製の階段が見えた。カーテンが閉められた窓を見てなぜか、安堵を覚えた。静かに階段を上る。鍵を差し込んで冷たいドアノブを捻る。鍵を閉める。規則正しく並んだ靴の隣に、コンクリートに削られた俺の靴が不規則に並んだ。玄関と部屋を仕切るドアを開けると寝息が聞こえてくる。ワンルームの部屋。小さくいびきを立てる小太りの家主の姿が、本来は一人しか寝る想定をしていないベッドの上にある。毛布を捲り、隣に潜り込んだ。男二人の体重が乗るベッドはギシギシと不安定な音で軋み、後に壊れるであろう未来を予期させた。
コーヒー? 彼は言った。目は開けていなかった。未だ眠いのか、声はひどくゆっくりで、舌が覚束ない。この会話も覚えているかわからない。そう。と俺は答えた。コーヒーだよ。一口含んで、隣に倒れた。肉厚な頬に擦り寄って顔で肌を撫でる。髭が痛いよ。苦情を言われて、おかしくて笑った。
次に記憶があるのはビシッとスーツを着込み、俺がコンビニで買ってきたコーヒーと、手作りのジャムを塗ったパンを頬張りながらニュースを見る彼の姿だった。おはよう。と言われて、おはようと返す。クシャクシャの髪を掻きながら、ベッドの下、床の上に直接置いたコーヒーが机の上に移動していると気づく。もう少しで彼は部屋を出て行き、俺一人が部屋に取り残される。コーヒーありがとね。彼がそう言うと寂しさより別な感情が勝った。立ち上がり、玄関に向かう彼を追い、スーツに隠れた肉を摘まんで送り出す。困った顔をしたまま、行ってきます。と外に出る。部屋の中から彼の温度が消えた。
僕の肉が君の体に移ればいいのにね。そんな冗談を言われたことがある。不健康な肉であれば幾らでも受けてやって構わないのだが、一方、彼の抱き心地が好きだ。そもそも、外にでて走り回り、あちこち取材する俺と、デスク仕事で座る時間の多い彼を比べるのが間違いだ。不健康は解消したいと思うが、健康であるのに「痩せろ」というのは、違う気がする。
フン。音を立てて笑ってからパソコンを点けた。こんな考えを持つなんて。ニュースはそろそろ次のニュースに切り替わる。もくもくと煙立つ埃っぽい部屋で仕事をしていた時を懐かしく思う。地面の上に散らばった原稿用紙を拾い上げて、そこに書かれた下種な原稿を拾い上げる今よりもう少し痩せていた、俺。
さ、サイコーだねー。
奥の撮影スペースで写真を撮るカメラマンの決め台詞、だった。撮影スペースは間仕切りで区切られていて、もくもくと立ち上る煙が狭い室内を循環して環境が悪かった。不用意に放置された読みかけの漫画雑誌が黄色くなる程度には。
ライターは一人また一人と減っていた。もうすぐこの部屋すら借りられなくなる。昔は“ホン”に登場したいと夜職関係者が頼み込みに来たが、今はこちらが頭を下げてオンナノコを借りている。奥で撮影しているカメラマンも、写真技術を誇るプロではなく、カメラがちょっと趣味なだけのバイト。
キーボードから手を離すと咥えていた煙草を灰皿にねじ込んだ。文書には醜悪な赤い色の部屋を褒めたたえる内容と、その部屋に呼び出した女の子と遊んだ話がツラツラと書かれる。勿論俺が体験したことだ。編集長の伝手を頼り、格安料金で呼び出し、嫌々部屋にやってきて、ずっと不機嫌な彼女と、それを宥める勃たなかった俺を隠して、だが。
原稿まだかよ! 怒鳴り声が響いた。間仕切りの奥でオンナノコを宥める声が聞こえる。撮影料が支払われない可能性のある撮影なんて、喜ぶ筈もない。ねぇ、前のヤツどーしたの。えーっと。辞めたんでしょ。仕切りの向こうから聞こえてきた。怒鳴る声の隙間を通るように聞こえる仕事の愚痴と、バイトの愛想笑い。最悪の職場。そこにいる俺も、最悪。
終わらない仕事を切り上げられた時は、家に帰らずバーに居た。一人で飲む金などは無い。だから金を出して貰う。ヘラヘラ笑って愛想よくすれば運が良ければ奢ってもらえた。時に対価を求められる時もあった。良い奴なら、応じることもあったが、一夜の相手を求める常連からは嫌われた。
彼に逢ったのはそんな「最悪」の生活を繰り返していた時だった。食っては深酒し、吐いてを繰り返すので肉が付かない。フラフラしながらバーに居座り、次の客に集る。その客の一人。スーツを着た小太りな男。彼は他の常連から「久しぶり」と言われていた。小耳に挟んだ会話から、シングル(この場合、パートナーは同性だ)になったと聞かされた。昔の恋人と会う可能性も考えて、来ることをためらっていたが、空っぽの部屋に寂しくなって訪れた。と。
常連をぼんやり眺めていた俺に、彼らは業とらしく「あいつはやめておけ」と忠告する。雰囲気が怖い。金目当て。好き放題言いながら。
煙草をくゆらせる俺を丸い目で見た彼は、酒とツマミ片手に近づいてきた。そうして言った。飲み姿が不幸せそうで、食べませんか。言うね。煙草の煙が目に染みた。じゃあ、どういう飲み姿だったら幸せな訳。煙草を消し、見下す俺に男は言う。――度数の高い酒を飲むだけじゃなくて、味わいましょうよ。
ムカついた。こっちは度数の高い酒を浴びるように飲まなければ、一日眠ることすらできないのに、ツマミ一つ食う金すら渋って堪えてる俺を知らずに、味わいましょう。なんて。
僕が奢りますよ。その言葉に悪戯心が動いた。財布が空っぽになるまで飲み食いしてやろうと。だが、俺の腹は男の財布の中に入っていた万札を一枚減らしただけで満たされ、ただ終わった。酔っ払い過ぎた俺はヤツを「デブ」と繰り返して呼んでいた。
止せばいいのにデブは俺に酒と飯を奢るようになった。煙草を吸いながら男の会社の話や、昔の恋人の話を聞く。腹の肉を叩かれながらセックスする話が一番ウケた。デブは俺のような、スレたタイプが好みだと言った。「なんで?」と聞いたら、最初に自分を構ってくれた男がスキンヘッドで刺青入れたヤクザだったんだと。劇的な人生送ってんね。どうして別れたの。逮捕されちゃって。数年前、風俗街でガサ入れがありまして、それで。
話には聞いたことがある。あの後、オンナノコの単価が高くなった。人権団体が動き出して、働く彼女たちに必ず適切な料金を支払えと、声高く訴えてきた。何人かのオンナノコはそれに賛同してあっち側に行くか、この世界から抜けてった。残った子はこっち側にオトコが居るか、怖くて向こうに行けないか、自分が今いる場所が「最高」と思いこんだか、そもそも知らないか。
雑誌は当然、傾き始める。
酒が途端に不味くなった。口の中に入れていた肉の塊が胃にもたれて仕方がない。箸が進まなくなった俺に気が付いたのか、デブは「帰りましょうか」と促す。食事が終わってその言葉が放たれたら、その日はお別れ。
酒を飲むことも食事をとることも中途半端、夜空も黒と藍色の中間と言った色合い。部屋に帰れば残された仕事が嫌でも目に付く。アタシ、帰りたくない。下手くそな女優の真似で擦り寄った。困り顔のデブはしばらく考えた後、俺を家に招待してくれた。線路沿いを歩いて、踏切を越え、中から話し声が聞こえる居酒屋を横目にもう少し歩くと街燈に照らされた水色の壁が見える。白く塗装された金属の階段を上がると、桧と書かれた表札の部屋前で鍵を差し込み、捻った。
俺の家よりは悪くなかった。食事に金をかけるタイプなのか、ベッドと机の上にノートパソコンが置かれている程度の部屋。キッチン回りだけは調味料がいくつも規則正しく並び、賑やかだった。物珍しくそれを眺める俺に、一つ一つ説明していく。コショウ一つとっても違うメーカーのものを味比べして、お気に入りを残したのがコレなのだそう。これでも減りました。その言葉に驚いた。
デブは俺にサンドイッチを作ってくれるという。上着を脱ぎ、クローゼットの縁にかけ、俺は決して買うことのないふっくらと焼きあがったパンの塊を、変なナイフで切る。瓶に入ったマヨネーズに“からし”を混ぜるとパンに塗り、パックに小分けたレタスにトマト、ハムにキュウリと並べていく。からし入りのサンドイッチは初めて食べたが、旨かった。昔の喫茶店で提供されていたレシピなんですよ。と頬肉を揺らしながら語る。今思えば、あの時の俺は皿に乗ったサンドイッチ全てを平らげていた。飯を食べるのが生きがいとまで語るアイツが黙ってそれを許していたのだ。
サンドイッチをひとしきり食い切った俺は、服を脱いだ。慌てて止めるデブに「セックスが目当てで誘ったんだろ? 風呂だけ借りるな」そう言って、浴室を借りようと移動する俺を追いかけ、そんなつもりじゃありません。本当にあなたが心配だったから、家に来てもらったんです。デブは言った。人生でそんな言葉聞いたことなんてない。何かをするなら対価を求めるはずだ。俺が好みのタイプで、あわよくばセックスしたいとか思うから誘ったんでしょ。いいんだよ、隠さなくて。良くないですよ。本当に、私はあなたが心配なんです。話しながらシャワーの蛇口を捻り、髪を濡らす俺の手を止めようと、デブもずぶ濡れになった。本当に、あなたが心配なんです。あなたのお酒の飲み方は、不健康そのものでした。自分の体を傷つけているのと同じです。あのまま飲み続けてたら、この人は死ぬだろうと思ったから、せめて何か、食べてほしいと思ったんです。
ガラス張りで透明なシャワールーム。オンナノコを待つ間、シャワーで体を流す彼女たちを見ることがある。右利きの子は左手に、左利きの子は右手に、それぞれ傷があった。何の傷かはわかるだろう。自分を傷つける傷だ。時に太ももに、時に腹に。時に誰かに殴られたのか体に痣があった。
どうしたの。そういうこと止めなよ。俺はそれすら言えなかった。自分の生活にもなっていない生活に必死で、次から次に送られてきて、その子の稼ぎに繋がるのかわからない記事を書くために時間を過ごす。急に来なくなった奴に何があったが聞けば、「孕ませて逃げた」なんて最低な回答が返ってきても何も感じなくなった。最悪の場所に居る俺も、最悪な筈だ。
いいことには対価が必要だ。なんでこいつはそれを求めないのだ。俺が払える対価は肉体だけなのだから、ボロボロにして捨てろよ。俺はその言葉を言っていたのか、どうなのか、覚えてない。ただ、しとどに濡れたワイシャツに顔をうずめて、柔らかな手の平に背を撫でられながら震えていた。
翌日、職場に向かった俺は先ず、編集長の顔面をぶん殴った。払われない給料とチャラな。中指を立て、煙草臭い室内から逃げる俺の背を「オイ」と掴んだ編集長は振り返った俺を殴り、左目の下に青紫色の痣ができる。当然のバタフライエフェクトだった。
次に、家を解約する決断をした。煙草の臭いがしみ込んだ壁紙の張替えとか、エアコンの掃除とか、クリーニング代はふんだくられるだろうと思う。めんどくさいから色々捨てて、僅かな衣類をリュックに詰め込んだ時、俺には特に何も持っていくものなんてなかったんだなと思った。
玄関前に座り込んで帰宅を待っていた俺を、デブこと桧孝丸サンは驚いて迎えた。顔の痣について聞かれ、編集長をぶん殴った。と素直に答えたら、ワインを一本開けてくれた。傷にはよくないかもしれませんが、新しい生活へのお祝いに。だそうで。笑ったら傷が痛かった。
――そうして、なだれ込んでから、たぶんそろそろ一年近くなる。彼と親しくなって、少しずつバーの常連に迎えられた。あの当時の印象を聞くこともできた。馬鹿みたいに酒を飲み、男に連れ出されるもんだから、いつ事件になるか気が気じゃなかった。と聞かされた。一方、事件になってこの場所が無くなるのは困るから、どう追い出そうかまで話が及んだと聞く。彼らの行動が速かったら、別の場所で死んでいたかもしれない。大げさかもしれないが、そんなことを思う。
二人は付き合ってるの? あの頃、常連に問われて二人とも答えられない質問だった。日が過ぎる毎に、少なくとも俺は、愛していると確信を深めている。向こうはどう思っているのか、奥手が過ぎる故に、分かりにくい所がある。
今日、帰ってきたら俺は多分「いつ抱くのか」問うと思う。テレビ番組は切り替わっていて、次のニュースを読み始めていた。
2021/03/07
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