“シ”

「おめでとう」
 彼はそう言いながら目の前に花を差し出した。根っこのついていない退院祝いを意味する花だ。オレンジ色がもう少しで到達する病院の正面玄関入り口から入りこむ秋の日差しを浴びてキラキラと輝くように見えたのは俺の心中を察しているからだろう。
「ありがとう」
 と言いながら花束を受け取った。普段ならばそんなもの絶対に貰わない。邪魔だ。自室は机に専攻している史学の教科書、ノート、辞典、スマホ、パソコンくらいがある程度で、眠たくなったら床の上に布団を敷いて寝る、そんな生活を送っている。
 趣味といえば外を走るか海に行くか、――そのアクティブな性格が災いをして……入院することになってしまったのだが、完治したからにはまた外に行くだろう。じっとしていられない性格だから。
「早く外に出たいって顔してるね」
 表情に出てしまったのか花束をくれた彼が俺をからかう。
「ああ、だって、ずっと寝たきりだったんだぜ? 俺さ、子どもの頃、体が弱かったから、何回も何回も入院したり退院したり繰り返したんだよ。病院ってあんまり好きじゃないから、外に出られてうれしいんだ」
 ヘヘヘと笑いながら腕を掻く。呆れた顔で「だめだよ」と注意された。ガーゼがされたその場所は一週間前まで点滴を打たれ続けていた痕だ。自力で立つことも儘ならず、目を開けた時にはもうそんな状態で、近くに居たコイツが慌ててナースコールを押し、看護師と医者がすっ飛んで来た。同時に俺も「あ、ここ、病院なんだ」と知った。
「名前は言える?」
「……立川……、一樹」
 擦れた声だった。振り絞った声に周りに集まった人々の顔がほっとしたのを覚えている。何が起こったか聞いたのはその後の話だ。
 その日は暑くて、風が強かったことを覚えている。部屋の中に籠るどんよりとした熱が嫌になって、思わず外に飛び出した。壁に風が遮られる室内に比べて、びゅうびゅうと風吹きすさぶ外は、灼熱のなかでも少しだけ癒しをくれた。そのままストレス発散とばかりに外を走ったのだ。部屋に戻るぐらいなら少し長い距離を、と。
 強すぎる風が背中を押し、コンクリートを蹴る足の調子が良かった。だが、スニーカーのそこがへばりつくような暑さには敵わず、植林公園の中へと逃げた。木が光を遮り、強すぎる風からも守ってくれる。そよそよと凪ぐ葉の音が心地よかった。
 だが、それはほんの一時だった。風が木を弓形に揺らし、やめるを繰り返していることに気付かなかったのだ。
 俺は夢中で公園を走る。顎に滴る汗を拭い、水分を補給するために自動販売機へ向かう。運が悪かったと皆言った。大きくしなった木の幹が折れ、自動販売機に向っていた俺の体を押しつぶしたのだという。
 頭の打ち所が悪く、意識が数週間無かったと聞いた。目覚めた後も骨が折れており、体は固定され自由にはなれなかった。ようやく自分で食事をとり、リハビリを始めた頃には秋になり、地面にしっかりと立ち、歩き、正面玄関から外へ向かおうとしている今は冬の気配が漂っている。
「外に出たら何がしたい?」
 女子のように整えた短い髪の毛の持主が、俺を遮るように躍り出る。
「んー……、また、走りたいかな」
「変ってるね。普通、死にかけたことは嫌がるものじゃないの?」
「悔しいんだよ。寝っぱなしで失った筋肉と体力。取り返したい」
「アハハ、また、すぐ怪我しちゃうよ」
 そう言って彼は嬉しそうに笑った。「自動」とシールの貼られたドアが横に開く。太陽の光が眩しい。目を細めてしまった為に、前にやってきた“誰か”に気が付けなかった。
「あ、すいませ――」
 地面に倒れようとしている人を支えるのは難しいとその時知った。彼は俺の腕を掴み、顔を見上げると「水……」と言った。秋になっているとはいえ、未だ暑い時もある。熱中症かもしれない。俺は彼の体を支え上げるが、力が入っていない様子でずるずると地面に落ちて行った。
 男の体が離れると腕が冷たいことに気がついた。水がべったりとついている。それはじわじわと表面を広げていって、地面の上に倒れたた男の体からも広がっていた。悲鳴と「どいて」と叫ぶ看護師の声が聞こえる。彼女たちは俺を退けると倒れた男の体を医療用のキャスターに乗せて運ぶ。大丈夫? と聞いてくれたのは一緒に居たコイツだけだった。自分の着ているパーカーの袖で水に濡れた部分を撫でる。集まり始めていた野次馬達は一時のパニックが終了するとそれぞれ自分のやることへと戻って行く。この場には未だ乾かない水たまりと、足元に落ちた花束、動けない俺たちだけが残るだけ。

 退院したら体に悪いものを食べようと決めていた。落ち込んだ気持ちを慰めることも兼ねてファストフード店に入る。ハンバーガーを二つ、ポテトを一つ、炭酸ジュースをLサイズで注文して席に着く。ちなみに、これは俺一人の分だ。
「アレ、なんだったんだろうな」
 ハンバーガーを食べる前、何枚もナフキンを消費して念入りに腕を拭いた。それでも嫌な感じは残っている。俺のクエスチョンにヤツは視線を左右に彷徨わせた後、スマホに手を伸ばし、あるサイトを見せた。俺もたまに利用するニュースサイトだ。
――今日 143,892人 滅亡まで後40憶
 太い文字でそう書かれていた。広告を飛ばし、下へ下へとスクロールする。
――病への対応策見つからず、60代以上はさらに減る見通し
  7月4日に発見された病の流行により世界人口がさらに減少している。症状は体から水が溢れ死亡するというもので、医療チームが原因究明を急いでいる。歴史を見てもここまで大規模な流行は世界初であり、各国の連携力が試されている――。
 そこまで読んでスマホを返した。俺が眠っている間に世界で何が起こっているというのだろう。ヤツはスマホを受け取ると知る限りの事を話してくれた。
「原因がよくわからなくて病気が広がり始めた時はみんなパニックだったんだけど、今はもう慣れたよ。隣の人が急に倒れても、「おれじゃなくてよかった」って思うだけで、みんな怖くても平然と生きてる。さっきのはたまたまカズキの運が悪かっただけで、誰かは突然倒れて死ぬんだ」
 ハンバーガーを頬張りながら平然とそう言われるのが怖く感じた。せっかく退院できたのに、まだまだ人生、あと五十年あるのに、突然倒れるなんていやだ。
 生きたいと思っているのは俺だけではない。喧騒を無視していたが、電柱や家の壁に生きるために何ができるのか訴えかけるメッセージが多数見てとれる。募金を募るものもあるし、病に効く薬の開発のために人体実験をするべきと強烈に訴えかけるものもある。街中で救いの水なんて胡散臭い商品を販売する人々もいる。静かに世界はパニックに陥っていた。
「現実じゃないみたいだ」
「おれもそう思ってた」
 勧誘しようとしてくる人々をすり抜けて久し振りの家に帰る。街がどこか変わっていた。近所のコンビニが変わり、隣の家が空き家になった。昼の街を散歩する老人の姿がなくなり、外で騒ぐ子供の声しか聞こえない。気づいたらアパートの隣も空き部屋になっている。
「家賃ってどうしたんだろう」
「おれ、払っといたから、大丈夫だよ」
「え、マジで、サンキュー。……すぐは返せないけど……」
「いいよ、しかたないじゃん」
 久しぶりの部屋は少し埃っぽい気がした。机くらいしかない質素な部屋だがどこかなつかしい。床の上に座り、横になる。久し振りの床の感触。嫌いじゃなかった。
「この部屋、テレビないんだな」
「うん。何でもパソコンで済ませる」
「調べといたほうがいいよ。病気のこととか」
「うん……あ、大学にも連絡しないと」
 俺はヤツをちらと見た。何でもやってくれてないかなって、ヤツは俺の視線に気づくことはなく、床に座りスマホに触れていた。
「うんざり」
「何が」
「SNSのほとんどが「今日友達が死にました」とか、「誰々がいなくなりました」とか、そんなのばっかり」
「まぁ、仕方ないよ」
「そういうのに便乗して自分の顔写真とか、関係ない画像とか上げるやつ。最初は笑えるかもしれないけど、あとから腹が立つんだよな」
「わかるけど」
 フフと笑ってパソコンを立ち上げた。メールが何通も溜まってその中に大学からの連絡もあった。教授がしんだ、学長がしんだ、大学そのものが機能していないから連絡があるまで休校だと一か月前にメールが来ていた。
 病についても調べてみた。ウィルス性なのか、細菌性なのかもわからない。死ぬ間際に体の水が一気に抜けて死ぬという凄惨なものだった。
 生き残りたいと望む人たちは各国の情報を集めたサイトを立ち上げ情報交換を行っていた。頻繁に行われているのは長生きしている老人たちに話を聞き、それを纏めたものだ。
「そんなの、効果あるのかな」
 後ろから冷めたような声が聞こえる。
「わからないけど、何をしたらいいのかわからないなら仕方ないんじゃないか?」
 死にたくないと叫ぶことは楽だが、そうするよりもそっちのほうがいいんだろう。そんな答えしか浮かばなかった。

 一日経つと新聞に記された死者の数はまた増える。世界人口がまた減ったと知らされる。テレビのニュースはあと何日で世界の人口が消えてしまうのか報道している。報道の最中にスタッフが倒れる音がしても、誰も気にしない。それが日常になってしまったのだ。 
 それはこの街も同じだった。目の前の人が倒れても誰も気にしない。よくて通報するだけだ。救急車が来てくれたらラッキーな方で、救急車の運転手が死んでいることもあるらしい。
「怖い?」
「怖い」
 俺はヤツとそんな会話をしながら外食しようと店を探した。適当なファミレスに入って、ご注文を伺われている最中に店員が倒れた。食べたい料理を自分でメモして厨房まで持っていく。店員は跨いだ。死体が店の外に運ばれているのをぼんやりと眺めているとヤツが俺の手に触れた。ねぇ。
「明日もし、死ぬとして――」
「うん」
「一日だけでいいから、好きになってって言ったら好きになる?」
 顔に近づいた唇から吐き出された吐息に色っぽさを感じてドキッとした。薄暗い室内で俺を覗きこむ中性的な感じにクラッとする。
「好きに、なりたくない」
「そう……」
 声は落ち込んでいた。
「でも、好きに、なるかもしれない」
 世界が滅ぶならいっそ…、なんてヤケクソな意見だったが手を握る指が少し強くなった。
「ずっと一緒にいるからね。カズキがいつ倒れてもずっと一緒にいるからね」
「オマエが先に倒れる可能性もあるだろ」
「ううん、絶対おれは倒れない。カズキより先に倒れないから」
 そう言い切れる根拠はないのかもしれないが、安心させるため懸命に語る姿にキュンとした。先ほどの告白は受けておくべきだったかもしれない。

 日に日に人は減り始めている。SNSの書き込み件数も少なくなった。俺はヤツと二人で食べ物や飲み物を求めて近所を歩くだけの日々を過ごしていた。店も一軒、また一軒開かなくなり、道に倒れる人々が路傍の石のように増えていく。
「さみしいね」
「うん」
 細い指が力を込めて俺の手を握る。震えが伝わらないように強く握り返した。やっと開いているコンビニに入っても店員が床の上に倒れていて機能している状態じゃなかった。
 適当な商品を手にとって金を置いたのは良心があったからだろう。二人で歩きながら、二日前に賞味期限の切れたおにぎりを食べた。生きている人を見るほうが珍しい。食べ物がどこにあるか情報を交換した。それから、
「一緒に行きましょうか?」
「いや……やめとく、一人で死にたいから」
「そうですか……」
 それだけを話して別れた。彼も俺たちもいつ倒れるかわからない。隣にある死の恐怖におびえながら、生きるためのきっかけを探し始めている。
「延命会……?」
 隣から発せられた小さな声に顔を上げた。
 コンビニを出て次の角を曲がった所だった。硬筆で書かれたであろう半紙のメッセージ、その山が、家の壁、電柱、地面、死体の上までペタペタと張り付けられている。
「行ってみようか」
「だめだよ、怪しいよ」
「でも、他に何もないし……」
「だめだよ、そんな組織知らない。“予定にない”」
 細い体が俺の腕を掴み、やめようと繰り返して訴えた。
「でも、他に何がある?」
「食べ物さえ見つけたらまだ数日は生きられるよ」
「でも、食べ物だけじゃ大きく変わらないよ」
 最もだけど、ところ狭しと張り付けられた「延命!」「おいでませ」「こっちだよ」の貼り紙の山に生命力を感じたのは事実だった。怪しいなんてことは百も承知だ。何もしなければこのまま死んでしまうだけなのだから。嫌がるヤツを腕にぶら下げ引き摺る形になりながら、延命会と書かれた張り紙の山を追う。それは町を外れた林の中にある一軒の家で止まった。「やめよう」と繰り返す声を無視して扉に手をかけた。
「すみませーん」
 身を乗り出すと埃塗れの建物の中から髪の毛をカラフルに染めた陽気な爺さんが“ひょこり”と身を乗り出した。彼は俺の手を取り、「やあ! いらっしゃい、いらっしゃい」と叫ぶように話し、ぐいぐいと室内に引き込んでいく。
「延命会へようこそ。入会希望だね。さあ、ここに名前を書いて」
 渡されたのはA4サイズのコピー用紙に印刷された契約書のようなものだった。細かな文字で様々なプライバシーポリシーが書かれているが、細かすぎて読むのに時間がかかる。
「あの、……、延命会って何をするところなんですか?」
「延命会はね、その名前の通り、延命するための組織だよ」
「はぁ……」
「いま世界中で流行している病があるでしょ? ボクはあれから身を守る方法をみつけたの。聞きたい? 聞きたい?」
「き、聞きたいです」
 正直な気持ちだった。生きたいと思っている。たとえこれが詐欺であったとしても、こんな状態で奪えるものなんて何もない。命がある? この命だっていつか病で死ぬのだから、何も捨てる物は無い。儘よ! 思い切ってサインを書いた。
 爺さんは紙に名を書いたことを確認するとにっこり笑い、「少し待ちたまえ」と言いながらキッチンへと消える。カツン、と一度窓が鳴り、その時アイツが一緒に建物に入らなかった事を知る。
 アイツの事が気になって席を立った。遮光カーテンを少し開けると光と一緒にふわりと揺れる髪の毛が目に入る。唇をきゅと結び泣きそうな顔でパーカーの裾を掴む姿に、俺の心臓が掴まれるような痛みさえ覚えた。
「やあ、お待たせ」
 爺さんは歌いながらどこで買うのか分からない悪趣味な模様の皿に、これまた悪趣味な色のスープを入れて持ってきた。ミネストローネよりも赤く、黒い。ツンと鼻に付く香りはかぐわしいものではなかった。
「これ、は?」
「血のスープだよ。たしかに味は良いものではないかもしれないが、生きるためには必要なことだ。皆パタパタと倒れてしまったのは中身が変わることがなかったからだ。君はこれからこのスープを取り込んで新しく生きて行くんだよ、おめでとう」
 窓が一度叩かれた。外を見る。窓の向こうに居るアイツは飲んじゃだめだと叫びながらカズキ、カズキと俺を呼ぶ。
 爺さんが言った。
「彼は誰だい?」
「アイツは……、アイツは――」
 誰だっけ。
 名前が思い出せない。俺はアイツとしか覚えていない。ずっと近くにいたけど、どうしてそこに居たんだろう。何時知り合ったのだろう。アイツは誰?
「カズキ、やめて、飲んじゃだめ」
 懇願する声の甘さにスープを飲むべきか迷う。爺さんは何も言わず、ただ俺を見ていた。声がだんだんとすすり泣く音に代わる。窓を開けよう。そう思った。
「飲まないのかい?」
「アイツにも、アイツにも飲ませないと」
「その必要はないよ。だって、彼は変われないから」
「どうしてそんなことが解るんです?」
 少しムッとした。俺はヤツとずっと一緒に居たのだ……、だが、そう考えてまたわからなくなった。俺はヤツとずっと一緒に居たのに、何故名前も知らないのだろう。過去も、思い出も、何もない気がする。ただ、ただ、ずっと一緒に居たことだけは確かだ。
「それは彼が病のそのものだからだよ」
 爺さんは俺の考えをバッサリと切って捨てた。体が冷える。飲まなければ、衝動に駆られ、スープの入った皿を口につける。
 窓を叩く音が酷くなった。泣き声は止まり、低く唸るような声に変わる。カーテンの隙間から部屋を覗き込む顔は、中性的で愛らしい彼ではなかった。目をひんむいて歯茎が見えるまで口を開き、捕えられたら飲み込まれる、化物のようだった。
「止めろ! 飲むんじゃねぇ! もう少しでおれの物になるはずだったのに、ふざけんじゃねぇぞ畜生!」
 時に女の子のようにも見えたヤツの口から洩れた恫喝の声と喉を通るスープの不味さに吐き戻してしまいそうになる。細いと思っていたはずの手が窓をたたき続けた。ガン、ガンと音がひどくなる。恐怖にスープをこぼしそうになったが俺を支えたのは爺さんだった。
「安心したまえ、彼はここに入れないから。別れはさみしいかもしれないけど、大丈夫。また彼には会えるから。今その時期じゃないだけだ。でも、ずいぶん大がかりな“セット”を準備されたものだね。とてもすごいおもてなしだ。さあ、さようなら、当分戻って来るんじゃないよ」

 目を開けるとそこに居たのは鼻と目を真っ赤にした母だった。ナースコールを押すと看護師と医者が部屋の中に駆け込んでくる。彼らは俺を診察しながら話しかけた。名前は言える? 何が起こったかわかる? 体に変なところはない? 腕から針が外された。真っ赤な管と袋が離れていく。
 診察が終わると母が泣きながら俺の体を軽く叩いた。――昔っからアンタは何回も死にかけるような事をして! 大人になって落ち着いたかと思ったら、無事でよかったもう!
 この日からリハビリをし、退院するまではアイツがいた時と似たようなものだった。違うのは退院の日に花束は無く、俺の荷物を持った母が医者と看護師たちに丁寧に頭を下げていたくらい。透明なガラスの正面玄関を潜っても目の前で倒れて水をあふれさせる人は居ないし、あんな奇病も流行していない。
 調べた所、延命会なる組織は存在しなかった。支部だった場所を訪れても錆びついた看板には「入居者募集」と書かれた文字が掲げられているだけだ。
「家を探してるの?」
 ぼんやりと延命会の場所を眺めていたからだろう。向いの家から人が出て、話しかけてきた。頭を掻き、しばらく考えた後、素直に「延命会を探しているんです」と答えた。
「延命会……」
 片手にほうきを持ったオバサンは前に住んでた人がそんな組織を立ち上げてた気がする。と言うのだった。
「ここに住んでたおじいさん、延命会だか永遠会だか忘れたけど、そんな名前の会で活動してた気がする。でも、十年も前の話よ。彼が亡くなったのも十年前。でも、彼、自分が死んだことにも気づいていないんじゃないかってぐらいにこやかな顔で亡くなった聞いたから、ある意味で延命、永遠だったのかもしれないわね。ねぇ、どうしてその会を探してるの? そう、夢で? 助けられたの? そう……」

 入院中の勉強を取り戻すことに忙殺され、俺はあまり外に出なくなった。健康的だった体系を維持するための筋トレ、今はそれだけで満足している――している、と思いたい。
 外に出るのが少し嫌いになったのはまた彼の世界に迷い込むことが嫌だったのもある。血の色が無い世界より、赤い血が流れている方が好きだ。突然の病に倒れるより布団かベッドの上で動けなくなるまでゆっくりと生きていたい。恋人もほしいし子供もほしい。
 ふと思うことがある。何故アイツが俺をあの世界に巻き込んだのか。自惚れでなければヤツは俺を好いたのだ。何回も繰り返して俺はヤツに会いに行った。記憶はないけれど、その度に離れて、また会いに行く。俺は長くあっちとこっちをさまよい続けていたから、その時にも何か、話をしていたのかもしれない。何年、何か月越しに、「また来たか」と思って手を伸ばせばスルリと抜けてこっちに帰る、そんなことを繰り返すうちに向こうもムキになっていったんだろう。今度こそ確実にとらえるために近くに居る誰かを装って近づいたのだ。
 いや……、誰でもない。誰でもなかったんだ。彼は近くにずっと居たのだ。アイツが“シ”だったから、そうだ、そうだと思う。
 考えに区切りをつけ、大きく息を吐き出す。手に絡んだ細い指を思う。低い体温、長いまつげ、そこまで魅力的でありながら女性の形じゃなかったのはなぜだろうと思ったが、すぐ自分で回答した。
 彼は生を生み出すことができないからだ、だから女性にはなれなかった。だからせめて、男でもくらっとしそうな中性的な容姿で近付いてきたのだ。じゃあ、俺が女だったら女として近づいてきたのだろうか。そうなのかもしれない。ああ、案外“シ”ってのも好かれるために大変なんだな。俺はずっと寄り添ってくれたお前が嫌いじゃないけど、でも、まだ、もう少し待ってほしい、あと、五十年ぐらい。ゴメン。

2017/01/04

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